スタンディングみや(でした。)

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鰹の夜

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お休みの今日、なんとなく今晩は鰹が食べたく、用意するうちにいろいろ思い出しました。

俳句の投稿サイトに時々投句しています。

なかなか並から脱することが出来ずにいる中、同時に投稿する作文が時々取り上げられています。

下記は何回か前のものです。

兼題は『初鰹』でした。

 

変わった浪人生だったんだと思う。いつまでも両親への寄生に嫌気がさしていた。
進学の意思は捨てずに高校卒業と同時に地元の魚市場の仲買で働き出した。
朝四時に家を出る。
大将の競り落とした魚を集め、冷凍マグロの解体を手伝い、接客、、片付け、掃除が済む頃には昼は回っていた。
キツく危険で綺麗じゃ無いの3Kに加えて、朝は早く、水はつめたいで、先輩方の給料は年齢の割には良かったようだ。
でも若者に必要以上の金は持たせ無い方がいい。
パチンコ、競輪、競艇オートレースと一通りの課外学習があった。
でもまだ多少の真面目さの残る十代であった。
向かぬ賭け事は遠慮させてもらった。
あとはひたすら夜の座学に参加させてもらった。
酒を飲みながらの人生勉強である。
毎晩零時前の帰宅、3時間程度の睡眠の毎日だった。
2年目に入ったちょうどこの時期に、大将の家での宴会に呼んでもらった。
普段は目にするだけで私の口に入る事の無かった高級魚たちを腹一杯食べさせてもらった。
生の白身魚の美しさ、甘さを知ったのはこの頃であった。
この時に初鰹の握りに出会った。
脂の乗り過ぎて無い鰹の身とまだ温かい酢飯との取り合いが絶妙だった。
本当に美味かった。
女将さんは私のその顔を見逃さなかった。
帰りに寿司桶に私の両親の分よと、寿司を目一杯詰めて帰りに持たせてくれた。
もちろん初鰹の握りもだ。
生まれて初めてのひれ酒も頂き自転車の荷台に丸い寿司桶をくくりつけてもらい、私はふらふらと帰路に就いたがすでにその時には記憶は無かった。
寿司は当然両親の口に入ることは無く、すべてを知ったのは二日後だった。
穴があったら入りたかった。

若き日の初ブラックアウト初鰹

まだ純真な十代、忘れることの出来ない思い出である。

 

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ミスマッチですが、チンゲンサイも美味かったです。

 

続く雨降り思い出すのは

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数十年に一度の豪雨とのこと、大変な被害が各地に出ており被災された皆様には心からお見舞い申し上げます。

 

こんな雨で思い出すのは『木枯らし紋次郎』のある回です。

舞台は長雨が続き、止まっている渡し舟が出るのを待つ旅人が泊まる木賃宿、全く止む気配の無い雨模様の下で皆が苛立っています。

そこで始まる賭博でのいざこざ、巻き込まれる関係ない旅人たち、「あっしには関係ないこと…」と言いながら最後には剣を抜き喧嘩剣法で切り抜ける。

そんな内容だったように記憶します。

続く長雨と暑さの中で皆汗まみれでした。

夏だったのでしょう。

私も汗ばんでいた腕をさすりながら我慢出来ないなと思っていました。

 

暑さにも寒さにも強い私ですが、その後いずれは風呂で汗を流せる、そんな当たり前が待っているから出来る我慢なのです。

1995年の阪神大震災で神戸に応援で行かされた時もずっと風呂には入れませんでした。

でも私には神戸から離れた奈良に平穏の中に佇む自宅の風呂が待っていました。家が無くなってしまった被災した皆さんの不便を強く感じる中、私は我慢出来ないことはありませんでした。

皮膚が感じ時々記憶に繋がることがあります。

陽の光であったり、風であったり、はう虫であったりいろいろですが、雨で皮膚の感触を思い出したのは初めてでした。

小学生の頃、遅い時間の放映だったと思います。

両親の寝た時間にテレビのスイッチを入れ、ソファで膝を抱えて上條恒彦の歌う「誰かが風の中で」を聞いた瞬間に木枯らし紋次郎の世界に入っていました。

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