スタンディングみや(でした。)

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思い出 の検索結果:

東京から見た富士山(3/20投稿)

…れない。 ケガは少なかったように思う。 暑さの中での稽古のあとはかけるだけの汗を流し、心地よく安い居酒屋に足を運ばせた。 寒さの中での稽古のあとはその寒さを忘れさせ、帰ることを忘れたいかのように自主稽古が続いた。 そしてそのあと、部室で酒を飲み皆でコタツに足を突っ込み雑魚寝した。 朝早く目が覚めて階下のトイレで用を足す。 そして臭うが温かな布団に戻る途中六階から遠くに見えた小さな富士山を今でも憶えている。 寒さの遠のくこの季節、時々思い出す練馬の江古田から見た富士の姿である。

京都で過ごした時間 番外編

…ずっと昔のことばかり思い出していた。 思い出せばあまりにいろんなことがあり、全てをここに並べることは出来そうにない。 そんな中、どうしても紹介したいナイスガイがいる。 過去ここで登場してもらったかも知れない。 私が大阪支店営業部にいた頃だ。 その時、会社は気まぐれに発注者の業種別に担当替えをした。 生産施設グループ、教育施設グループのようにだ。 私は商業施設グループに入れられて、いつも会社にいるのが好きな部長の下についた。 スーパーマーケットが相手だった。 私は会社のメインバ…

京都で過ごした時間 その8

…きたい。 『ホタルの思い出』 https://standingmiya.hatenablog.com/entry/2018/06/19/224242 いろんな方に紹介してもらったが、一番印象に残るのは役所の現役の部長だった。 その方とはOBとなった今も付き合いさせていただいている。 ある夕方、外回りを終えて私が営業所に戻るとお客さんが二人来ていた。 応接室に通さず、事務所内、所長の席の前の応接セットにいた。 一人は事務時代、事務課長が請求書をまわしていた両手の一部分が欠損して…

兼題は『春の夕焼け』だった

…発表の週であることを思い出した。お便りコーナーをみて「あぁ、」と声が出た。 もともと俳句のたしなみは無く、ねずみ男こと寝たきり親父先輩に誘われて始めたのだ。いまだに先輩方の言葉に逆らうことは出来ない。 この先輩にはずいぶん世話になり義理がある、 10年も前に脳梗塞で寝たきりとなり動く指だけで器用にipad を扱い私に指示を飛ばしてくる。企業戦士として闘い癒えることのない傷を負った。出来る限り、手足となろうと思っている。 二週間に一度の投稿であるがいつも締切り当日の締切り一時間…

コタツの無い生活

…もなった。 家族がそこに集まり、団欒の始まる安上がりな素敵な生活用品だと思う。 だが、私には一つだけ、足が汗でネチャネチャして来るのが嫌だった。 寝る前には冷たいのを我慢して風呂場で足を洗ったものである。 日本の文化でもあり、利点もたくさんあるコタツであるが、そのネチャネチャが私に昔を思い出させる。 そして、その記憶が私にコタツを遠ざけさせたのかも知れない。 https://standingmiya.hatenablog.com/entry/2018/12/05/114822

コーヒーを飲みながら

…づき、いろんなことを思い出す。 ゼネコンの営業時代の年度末は書類が増えるだけで、仕事は変わらない。 年度毎の目標を考え、書面にするくらい、営業に年度の区切りは無かった。受注に向けてエンドレスで走るマラソンのようなものであった。 思い返せば向かない営業をよくやっていたと思う。 他社に負けたくはなかったが、社内で足を引っ張ったり、いがみ合うことが理解出来なかった。 もう四十年前になる年度末に私は上京した。 ひとりで上京してしばらくは帰らないつもりだった。 しかし、その日仕事が休み…

懐かしい時間

…色が白く、山形出身の母と同じくもち肌だった。 「宮ちゃんは狙われるわ」とある人に言われた事がある。 私はわざわざ人の少ないそんな時間にやって来るそんな男が許せなかった。 今となれば懐かしい思い出である。 白髪頭の六十歳、もうそんなことはないだろう。 銭湯の広い浴場で響く湯の音を耳にしながらのんびり湯に浸かってみたい。 上がって缶ビールでも飲みながらテレビの相撲中継でもボーッとながめてみたい。 そんな時間がしばらく無かったように思う。 そんな時間が妙に懐かしく思える最近である。

水餃子を喰らい考えた

…りはどうなるのであろう。 合気道の稽古も緊急事態宣言が解除されたらすぐに再開しようと思っているが、なんだか微妙である。 この先どんな舵取りがあろうとも自国と自国の未来を支える子供たちを愛して、しっかり皆が同じ方向を向いてみたらどうかと思う。 マスクをして日々の生活を送り、ワクチンがやって来たら接種して、飲み屋も終電に間に合うくらいまでは営業して常識と良識を持った飲み方をしたら大丈夫だと思う。 分からぬ先を思いながら、台湾の黄さんを思い出しながら、食べる水餃子が最近続いている。

懐かしい出来事

…のは私ぐらいのものであろう。 東日本大震災の後、多くの在日外国人は日本から離れた。 そんな中、キーンさんは帰化した。 日本人以上に日本を愛した人であった。 キーンさんが好きだったイタリアンレストランが出ていた。 そこのニョッキが大好物だったそうである。これもまた可愛らしい、他のことをしながら横目で番組をみながら三十年も前のことが鮮明に思い出せた。 今となったら笑いながら話せる懐かしい出来事であるが、ニセ文学青年の当時の私にはあまりのショックでその晩もまた眠れなかったのである。

雨の日に思い出す

久しぶりの雨らしい雨が乾いた空気でいがいがしていた私の喉を潤してくれる。 この時期電車の中で咳をするだけでも気をつかってしまう。 気のせいか電車の中で以前のように咳やクシャミをする人間が減ったような気がするのは私だけだろうか。 サラリーマン時代の雨の終電での帰りは寂しいものであった。 終電の時間を早くするのは理解出来るが困る人もいるんだろうなぁ、と思う。 学生時代いろんなアルバイトをした。 終電で築地に向かい、朝まで青果市場の卸会社で働いた事がある。 帰宅するサラリーマンと逆…

遠くない未来の話

… これが一番なのではないだろか。 しかし、音をたててこのシステムは崩れ去った。 今の若者たちには正規雇用の保証は無く、もちろん退職金などありはしない。 老後に年金の制度も助けてはくれない。 今の変わってしまった常識は20年後、30年後の常識を変える。 退職金など無く、定義の変わった高齢者年齢に従って働けるだけ働き続けるのであろう。 なんだか分かり易い未来で悲しくなってしまう。 こんな事を考えていたら、減るのではないかと思った『老人性うつ』は増えるかもしれないと思い出してきた。

先を見通す力

…来た。 今、その事を思い出す。 生まれて来るのがずいぶん早過ぎた男だったと。 現在を考えると確認したわけではないが、そんな営業しかしようがないのではなかろうか。 会って話す事が営業の基本としても『会ってはならない』が世の建前となっている。 たぶん東京支店の竹内さんがコッソリ教えてくれるだろう。 土俵際ギリギリで耐えながら死力を振り絞っている企業が多いなか、世の中の変遷に乗っかり『働き方改革』を進めて資産売却で手持ち資金を増やせる企業はいい。 ある意味運の良い悪いが企業の業績の…

空に舞う凧の先にあるもの

…供の頃やった凧揚げを思い出させる。 この時期であった。 父の勤める会社の社宅には同年代の仲間が何人かいた。毎日何かをして遊ぶのだが、この時期の凧揚げが楽しかった。 近くの駄菓子屋で竹のフレームに貼り付けられた紙の凧である。駄菓子屋に並ぶ凧は昔ながらの絵柄が多かったように記憶する。個人的に奴凧が一番安定して遠くまで上がったと思う。 一日20円と決められていた小遣いを数日我慢して使わずに駄菓子屋に走った。 奴凧と凧糸を買う。そして社宅の屋上に向かうのである。 仲間が何人かすでに上…

兼題『寒海苔』

…かみ合い寸前までいったように記憶する。 忙しい朝にそこまでなるには純粋に海苔の美味しい食べ方ばかりではなく、常日頃つもり積もった何かがあったのかも知れない。 子どもの私たちに分かりようのないことであった。 板海苔を食べる機会が少なくなってしまった昨今であるが、目にすれば湧き上がる両親の思い出である。 ニューコロナとは無縁のあの世はさぞかしいいところなんだろうと思う。 なぜならまだ両親が私の前に帰ってきた形跡は無いから。 毎朝仲良く海苔ごはんを食べていることと思う。/宮島ひでき

電卓で思い出す

電卓を何台も持っている。 自分の能力の無さを電卓が補ってくれるのではないかという妄想のもと社会人になったばかりの頃使い易そうなヤツを見つける度に買っていたのだ。 社会人になり、ゼネコンでの一年目は英語の研修を終えて大阪支店に配属された。 そして生まれて初めての京都の出張所で建築現場の事務を経験した。 現場での仕事はよく言えば原価管理と労務管理、それから渉外であり、悪く言えば雑用係の何でも屋であった。 もう40年も前のこと、半世紀近くも前のことだ、旧態依然としたやり方でいつも疑…

寒い日の缶コーヒー

…い、と勝手に決めてしまったのだが後味が悪い。 なにが正解か分からない。 自身のことは自分で判断するがこんな損得に関わらないことの判断は難しい。 ひょっとしたらどこかの協会みたいなところでこそっと指導要領みたいなのを作っているかも知れない。 しかしながら周知されなければ無きも同じことである。 次は小声で本人に聞き、本人の意思があれば行動しようと思う。 声をかけるくらいで嫌がられることはないだろう、という前提のもとに。 視覚障害者の方を見かけて昔飲んだ缶コーヒーを思い出していた。

冬の青空とコーヒー

…コーヒーにさまざまな思い出がある。 コーヒーと一緒に生きてきた、いつもそばにコーヒーがあった。 不思議だけれどビールや酒でこんな思い出は無いのである。 歳を重ねるごとに思い出は増える。 もちろんいいことばかりじゃない。 嫌な思い出や辛い思い出のほうが多いだろう。 コーヒーという不思議な黒い透明の液体がすべて吸収してくれるのかも知れない。 コーヒーの力か、時間の力なのか分からないが、コーヒーとの思い出はどれも昇華されて嫌さも辛さも無くなっている。 そんなコーヒーはこれからも私と…

ちぢみほうれん草のパスタ

…ねて三千里』をいつも思い出す。 お母さんが帰ってくるのに乗っているであろう船の到着を待つ間、自宅で猿のアメディオを相手しながらパスタを茹でる。 それしか無かったのだろう、「今日は粉チーズだけにしておこう」と寂しく食事を済ませる。 なんだか共稼ぎでいつも家にいない母の帰りを待ち、冷えた残りごはんにふりかけをかけて腹を満たしていた自分を思い出したものである。 パスタなんて自分で料理して食べる時が来るなんてその時は想像もしなかったが、今では普通にわが家の食卓に上がるようになった。 …

雨のクリスマスイブ

…ネコンでの営業時代を思い出していた。 四半期に一度営業所別での戦略会議があった。 ひな壇には営業所長、担当者がずらりと並ばさせられる。 そして支店長、副支店長、各部門長からの詰問責めとなる。 営業所員は皆、戦々恐々としていた。 営業の進捗度合いは嘘をつこうともその道のプロには筒抜けてしまう。 今とは時代の差もあるのだろうが、怒鳴りつける場面もあり30歳の私はいろいろ妄想しながら黙って見ていた。 数多くの事例やいろんな営業マンを見たことはその後の私の営業に役立った。 この時の司…

豊橋ステーションビル

…。 こんな寒さで時々思い出すのが豊橋駅のステーションビルである。 今はもう無いそのビルの地下が食品売り場だった。 母は転居後すぐにまた看護師として働き始めた。 夕食の準備に毎回母は苦労していた。 時間が無い時にはステーションビルの食品売り場で買ってきたおかずが並ぶ時もあった。 何を出されても笑顔で『美味しい』と言うのが宮島家のしきたりだった。 あまり食べるものをねだる事はなかったが、一度母に食品売り場に連れて行ってもらった時に『お好み焼き』を買ってもらった。 関西のお好み焼き…

寒い朝、そしてランチタイム

…集団登校中の寒い朝を思い出していた。 兄の手を引き歩く途中、これも破裂した水道管の水が有刺鉄線にかかり朝の陽を吸い込んだ宝石のような氷の粒がキラキラと輝いていた。 この時も、十年前もそれだけで心は癒された。 『冬来りなば春遠からじ』といった心持ちだったのである。 新型コロナの日常も、普段の日常での辛いこともちょっとした事で乗り越えることは出来るはずである。 ようは自身の見切りと切り替えだと思う。 残念ながら考えても、努力してもどうにもならない事はいくらでもある。 そうなったら…

玉子はお好きですか、

…みの一品である。 私が小学生の頃母が豊川市民病院に勤務しており、一時期精神科にいた。 その病棟まで数回行ったことがある。 なぜ行ったのかは覚えていない。 入り口には鉄格子かあり、窓も全て鉄格子がはまっていた。 ちょうど昼時に居合わせた私は昼食の配膳を見ており、席についた患者さんが一つだけの玉子の目玉焼きを見て「目玉焼きじゃない、片目焼きだ」と言って泣いていた。 言っていることは間違いじゃないなと、小学生の私は納得していた。 そんな事を目玉焼きをつつきながら時々思い出している。

年末の予定

…さが私に中学生の頃を思い出させる。 愛知県豊橋市に住んでいた。 太平洋岸式気候で冬は雲一つない晴天が続き、渥美半島の表浜はずっと砂浜の続く知る人間には人気のスポットだった。 NHKの朝の連続ドラマ『エール』の主題歌と共に主人公の二人が毎朝歩いた砂浜である。 その頃はふと思いつくと自転車にまたがっていた。 ジーパンの尻に文庫本の厚みを感じながらひたすらペダルを漕ぐ。 豊橋の街中を抜けてしばらくすれば見渡す限りのキャベツ畑である。 そこから見えるのは地平線、一段降りれば表浜が広が…

本屋での楽しみ

…るのだろう。 ここで思い出すのは、以前何かの本で目にしたアメリカの書店の個人経営が十分成り立つのは本の価格が日本と比べ倍以上だと書かれていた事である。 ならば日本の書店も十分やっていけることであろうが、私が思うに今の価格でも納得出来ない本が多いような気がする。 内容のある、質の高い本を創らなければならないという事であろう。 社会変革に追いついて行くことも大切だと思うが、もっと大切な事を考え温め直す必要もあるのではないかと思う。 本屋だけの問題ではない、本屋の問題である。 『桜…

浦島太郎を思い出す話

…んなことはないのだろうが、気になるのである。 ひょっとしたら倫理なんてものが根底から違うかもしれぬ。 そうしたらそんな事を考えること自体が全く無意味なのかも知れない。 しかし、このプロジェクトの中の小惑星『りゅうぐう』なんてのは誰が命名したのだろうか。 カプセルは玉手箱とはならないのだろうか、ここで浦島太郎のを思い出すのは私だけなのであろうか。 以前書いた話 https://standingmiya.hatenablog.com/entry/2019/04/05/065503

愛しき猫

…優しく遊び相手をする、身の回りの世話をする、はすべて家内の役割だった。 だから家内は自分の子どものように思っていたことだろう。 私は同居人である。 実はもうすぐトラの一周忌が来る。 ただの同居人であったはずのトラを最近よく思い出すのが不思議である。 『茶トラ倶楽部』ばかりが原因ではない。 今思えば、気がつけばそこにいる。 そんな存在であった。 余計な事を口にするイヤな人間とは違い、いつも黙ってそこにいてくれた。 友だちにするならこんなヤツがいいなぁ、としみじみ思う最近である。

兼題『嚔』くさめ

…め」とやっていたのを思い出すくらいである。 妙に頭に残っている『くっさめ』が 気になり調べると1985年のCMであった。 なんと私が社会人となった年である 基本的にテレビはNHK以外はみない。 思い起こすとこの時は会社の独身寮にいた。 食堂ではいつもテレビが付けっぱなしだった。 ここのテレビで旅客機の山中への墜落事故もみた。 盆休みに帰省もせずにずっと関連の速報をみていた。 それと同じテレビでみた『くっさめ』なのである。 私たちが社会人になった時代、バブル期にまっすぐに向かっ…

冬に向かい

…ごした実家での日々を思い出す。 病院、介護施設、市役所の福祉課の人間、それ以外の人間とはほとんど話することは無かった。 前向きな話などありはしない。 なるようになれと半ば投げやりに半年も過ごすとなんだか脳にも心にもダメージを与えてしまったような気がした。 本来ならば移ろいゆく自然を感じ心が清らかになっていくのではないかと思うのだが、今の私はそうではない。 いずれ薄らいでいくことなのであろう。 現在、周りにいる家族が抱える苦悩をたくさん見ていて自身のそれに置き換えてしまう。 今…

砂漠とニューコロナ

…ジプトまで行った事を思い出した。 エジプトの歴史に興味があったが、もっと興味あったのは砂漠と砂浜の境がどうなっているのか見てみたかった。 結局その確認は出来なかったがギザのピラミッドの前で呆然とし、アブシンベル神殿ではなぜか懐かしさを感じ、カイロ博物館では時間を忘れて一人彷徨った。 それから40年近く彷徨い続け、予想にも希望にも反して大阪に漂着している。 人と話しをすることが好きではないのに消去法で営業職に就き、接客業までやってみた。 そして今。 今会う人間は限られている。 …

堪える寒さで考える

…場に寒がっていたのが思い出される。 筋力が落ちて代謝が落ちることが一番の原因のようである。 誰の身体も同じなんだと妙に納得している。 両親の晩年をじっくり見てきた。 それまでは年に一度くらいしか会うことの無かった両親の晩年を二人の病気、兄貴の病気のため、じっくり見てきた。 反面教師である。 死ぬまで働ける事が幸せなような気がする。 必要とされる自身がいることが一番の幸せなような気がする。 心身ともに健康を保ちながら、日々の生活を続けれることが一番の幸せのような気がする。 掲げ…