スタンディングみや(でした。)

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台風一過

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へそ曲がり台風12号は実家のある愛知県三河地方にも被害をもたらし西へと去りました。

昨日7月30日月曜日、仕事は休みで母、兄のところまで行って来ました。

兄のいる田原市は大阪でみたニュースの通り、農業用のビニールハウスのビニールは剥がされ、酷いものはハウスごと潰されていました。

電柱が根元から倒されまだ停電している地域もあるということでした。

まだまだご苦労をされている方がたくさんいるそうです。心よりお見舞い申し上げます。

昭和34年、兄の生まれた年に伊勢湾台風はやってきました。兄を背中にくくりつけ飛ばされそうな扉を押さえていたと母から聞いた記憶があります。

台風は毎年決まった時期に必ず来ていたように思えます。

季節にメリハリがありました。

朝夕はそれなりに涼しくて夏の疲れが今ほど残ることは無かったと思います。

『暑さ寒さも彼岸まで』という言葉も死語とはなっていませんでした。

ただ暑いだけ、寒いだけの四季ではなかったように思います。

日本人が持ってきた四季の移ろいに対する機微や情感のようなものが希薄になっていくような気がします。

ただ、自然には勝てません。ますます日本が変わっていくのは否めないのかも知れません。

さて、母の終焉は近づいているようです。四季同様必ず巡って来る死です。本人も家族もこれを受け入れなければなりません。

グループホームで母を世話していただいている皆さんの緊張感が違っていました。

来たんだな、と肌で感じました。

それでもなお母は周りを気遣い、弱音は吐かないそうです。

母を尊敬します。

宮沢賢治を彷彿させる母です。こんな母となったのには育ちも、両親から受け継いだ資質も、兄を思い続けた六十年間も関係があったでしょうが山形の四季も影響していたに違いありません。

暑い暑い夏には多くの果実が実を結び、つかの間の秋には爽やかな青空のもと米を収穫し、雪に閉ざされる長い静かな冬には囲炉裏を囲んだ家族での会話があり、やっと来た春には皆が喜び土と共に農作業が始まります。

そんな人間として当たり前の生き方をして来た母の今の姿が本来の普通の人間なのかも知れません。

多少の余裕があるならば、相手を気遣い、互いに気遣いあえる世の中となっていく。

子供の頃そんな風潮がまだ残っていたように思えます。

母の生まれた山形県南陽市赤湯にはまだまだそんな優しさが残っています。

そんな故郷に母をもう一度連れ帰ってやらなかったのが心残りとなりそうです。

 

写真は母の部屋からのもの、台風一過の豊川の青空です。