34年前のお盆
ある時期から夜中に時々ラジオのスイッチを入れる。
今日の深夜、流れて来たのは坂本九の『上を向いて歩こう』だった。
作詞・永六輔、作曲・中村八大、歌は坂本九の六八九トリオである。
と言っても今の子らは知らないだろう。
昭和の名曲を世に生んで来た三人である。
坂本九の声を聞いていて、ハッと思った。
34年前のあの日を思い出した。
1985年、昭和60年8月12日に墜落事故は起こった。
その翌日8月13日、私はゼネコン入社一年目、足立区竹ノ塚の寮の食堂にいた。
盆休みに入り、帰省前寮でのんびりしていた。
運動不足の解消に近所を走り回り遅い朝メシを一人食堂で食べていた。
テレビのニュースで現場付近の映像を観て、うわぁ、と思いながら冷めた目玉焼きの黄身がゆっくり流れて出て来たのを目にしてた。
この事故の中に坂本九はいたのである。
全日空しか使わない人だったと後から聞いた。
運が悪かった、と。
でも、たまたま乗り合わせたというのであれば全員同じであろう。
運とはそんなもので運の良し悪しは過去形で結果が出てから使う言葉だと思う。
『思い出す秋の日
一人ぼっちの夜
悲しみは星の影に
悲しみは月の影に
涙がこぼれないように
泣きながら歩く
一人ぽっちの夜
一人ぽっちの夜』
この歌詞も夜に近い夕方墜落した飛行機に乗っていた坂本九の未来を案じていたようにも思える。
しかし、そんなことはないであろう。
自分の良い都合で考えたいのが人間の脳である。
翌日、大阪に帰る同期の八條君の車に乗せてもらい実家のある豊川経由で帰った。
八條君は実家で一泊していった。
二人で太平洋岸のどこまでも続く砂浜まで行った。
遊泳禁止の海岸で波に揉まれながら泳いだ。
お盆の海には入るな、と田舎の人は言う。
クラゲの出現以外の問題を言う人もいる。
何もなかった私たちは実は運が良かったのかも知れない。
延長して考えれば今生きていること自体が運の良さかも知れない。
難しいことは考えないで生きている今に感謝すればいいと思う。
しかし、家内が連れて来たこの二匹は本当に運が良かった。
危険な暑さ
最近、気象情報やニュースで聞くこの『危険な暑さ』という言葉がやけに耳に残る。
『命に関わる危険な暑さ』ということのようであるが、考えてみれば37度、38度は体温並みであり、時折聞く40度なんてのは夏場の風呂に入っているのと変わらない。
大変な日本となっている。
学生時代に行ったエジプトは陽射しの暑さは感じたがカラッとした暑さだったように記憶する。
ツアーの説明書に日焼け止めクリームとあったので生まれて初めて江古田の薬局で買った。
ベタベタが苦手で結局使わずボストンバッグの底で潰れてエジプト土産はクリームまみれとなった。
同じツアー客の広島から新婚旅行でやって来てたご主人はサンオイルを塗っていた。
真っ黒に日焼けしてカラカラと笑う豪快なご主人だった。
帰りに成田空港の寿司屋で腹一杯握りをご馳走になった。
エジプトより暑く感じるこの日本の暑さ、『心頭滅却すれば火もまた涼し』なんてのは嘘である。
暑いものは暑い、でいいと思う。
この暑さを『災害』と表現する気象庁がいるのであれば、その対策を行政はとらなければならないのではと思う。
しかし日本でロングバケーションなんてのは不可能であろう。
絶えず働いている人がいなければ我々の生活は成り立たない。
日々を働かなければ生活の成り立たない方もたくさんいる。
個々で闘うしかないのである。
幸い私は暑さにも寒さにも強い、しかし家内は逆だ暑さにも寒さにもノックダウンだ。
食欲も落ち、近所のうどん屋に行った。
家内は当然冷たいうどんだ。
私は熱い昆布うどん、周りを見渡しても熱いうどんは誰も食べていなかった。
七味をたくさんふって美味しくいただいた。
多少の汗はかくが、その後の清涼感の方がいい。
メリハリである。
うどんの出汁ほど暑い日が来れば昆布うどんは止めるかもしれないが、当分そんな日は来ないだろう。
私は周りの白い目をものともせずに熱い昆布うどんを食べ続けるだろう。