雨の通天閣
さて、昨夜は合気道の稽古の日でした。
夏休みを控えて昨日が終業式だったそうです。
そのためか子供たちはお休みが多く、子供たちは小学五年生の男の子一人きりでした。
一般の稽古に入ってもらい一緒に稽古しました。
普段はなかなか話をする時間は無く、ちょうど良い機会だと思い会話する中、合気道を始めた動機を聞くと、『強くなりたいから。』と素直な言葉が出て来ました。
原点だと思います。
大人は何かにと適当な理由を言います。
でも、男であれば『強くなりたい』という動機が一番だと思います。
そこにたどり着くいろんな理由もあるかも知れませんが自分が強くない事を皆知っているんだと思います。
彼の言う『強くなりたい』の真意は分かりませんが喧嘩のために合気道はあるわけではありません。
続いていくうちにいろんな事がわかると思います。
まずは健康な身体に健康な精神は宿ってくれることでしょう。
そして同世代や異性や目上の人や強い人弱い人と稽古していろんな事を考えてください。
一生のうちに一度くらいは自分の本当に大切な人を守らなければならない機会に遭遇するかも知れません。
その時に何をするか、しなければいけないのか自身で咄嗟の判断が出来るように自分を鍛えてください。
合気道は喧嘩のためにあるわけではありません。
でも強くなってください。
私が応援します。
一般に混ざっておじいちゃんやひいおじいちゃんと変わらないであろう方とも稽古して、いつも一緒の優しいお母さんと帰って行きました。
私も合気道を始めた動機を思い出してみましたがやはり『強くなりたい』からだったと思います。
そして今、誰よりも強い生きる力を合気道からもらっているのかも知れません。
兼題『空蝉』うつせみ
一週おきの俳句投稿サイトの発表の週です。
今回の兼題は『空蝉』でした。
現世を生きることを仮の姿とし、うつせみに投影してセンチメンタルな気持ちに浸る若い時期もありました。
還暦を来年に控えてそろそろ地に足をつけて歩き始めています。
でも夢はいつまでも捨てたくないですね。
本題の俳句は今回は『並』、私には『人』と『並』の境界線がわかりません。
以下はお便りコーナーに取り上げられた文章です。
兼題『空蝉』
この歳になりセミの抜け殻を手に取ることもなくなった。 しかし、目に入れば記憶は一足飛びに子どもの頃に戻る。 夏休み、陽射しの一番強い午後に豊川工業高校へ毎日捕虫網を持って通った。 幹の太い桜の並木が重たいほどの濃緑の葉をまとい私たちを待っていた。 低学年の私には育ち過ぎた桜たちにとまり鳴くセミにはどんなに背伸びをしようとも網を近づけることは出来なかった。 同じ社宅の歳上の柴田君のあとを追いながら顔を上げたままセミを探し続けるがそのうち疲れ果ててしまい、自分の普段の目線に戻す。 そこで見つけるのはセミ達の抜け殻だった。 そしてそのまま地面に視線を移動させると彼らが這い出してきた地中につながる穴がある。 その地中に長くいるセミの幼虫のことを考えた。 地上に出ることが出来た喜びを鳴いて表現するのかと最初は思った。 でも、夏の終わりまで毎日セミの抜け殻を見ていると考えは変わってきた。 安楽の地であった地中にずっと居たかったに違いない。 抜け殻の半透明な飴色は木洩れ陽を受けて悲しく見えた。 無理矢理この地上に追いやられ悲しくて泣き続けるのだ、そうに違いないと思い至ると一人でセミ採りには行けなくなった。 そして時折夜鳴くセミの声を耳にして、私は一人布団の中で泣いた。