正月三日の朝
正月三日、時間は何も私には告げずに悠々と進み続けています。
正月だからといって何かが変わるわけではないのですが凡人の私には少しだけ身体と心を休める時間があって、少し美味しいものがあって、いつもより上等なお酒が家にある、それだけで気持ちは高揚します。
合気道の稽古も文章を作ることも私の心を休め、リセットさせるためにあるようにも思います。
今日だけ、母と兄のことはしばし忘れさせてもらってこれから先の忙しい毎日に備えます。
昨年最後の俳句投稿サイトに出した文章です。
兼題は『枇杷の花』でした。
俳句は今回も並でした。
今年こそ松山市の電光掲示板に出してもらえる俳句を作りたいものです。
以前、天王寺の古いハイツに住んでいたことがある。
大学のすぐ裏、前の道路は人通りも少なく静かで、狭いが落ち着く部屋にそれなりの安らぎを覚え日々を送っていた。
何も用事の無い日曜日の午前中にはよく四天王寺まで散歩に出かけた。
その途中に誰も住んでいない古い小さな家があり、庭に不釣り合いなぐらい大きな一本の枇杷の木があった。
枇杷の木は地味だ。
それと知る人は少ないのではなかろうか。
白い枇杷の花が咲いてもさほど気に留めた記憶は無い。
実がなり、初めて枇杷の木と意識しだす。
そして実が育つのが楽しみだった。
枇杷の淡い甘味は私の好みである。
しかし、私の手の届かぬ場所で育つ小振りのこの枇杷たちは近所で見かける鳥たちの格好の餌となることと期待していた。
賢い鳥たちは熟れた実しかついばまない。
人間と鳥の知恵比べがそこにはあった。 そろそろ食べ頃だな、と思いつつ目にしていた枇杷が ある日曜の朝前を通ると、たまたま通った前日まであった実が一つ残らずもぎ取られていた。
あれだけあった実が一つも無い。
やられたな、アイツら口に出来ただろうか。
まだであれば少しくらい残してやってほしかった。
果肉より種の方が立派な枇杷の実だが、鳥たちにも季節を感じさせてやりたかった。
こんな風景にも季節を感じ、また一巡したなと自分の年齢を実感する。