我が人生の遺物
以前ここで通天閣のすぐそばにあった『フェスゲ』フェスティバルゲートの事を書いたことがある。
引越しの片付けのなか、その証拠写真が出てきた。
一緒に写っているのは大阪支店営業部の長谷川君、仕事中に見せたことのない生き生きした顔をしている。
そして1997の数字。
フェスゲは1997年にオープンしている。
開園と同時にバブル崩壊である。
場所と言い、事業の内容と言い大阪らしいノリで『やってみなけりゃわからない。ダメならダメで仕方ない。』てな感じだったのではないだろうか。
当時の大阪市長の磯村氏は確か経済学者だったのではなかろうか。
バブルの行き着く先は誰も想像出来なかったのだろうか、考えたくなかったのだろうか。
知事はあの横山ノックだった。
その頃まだ、私は奈良県民だった。
大阪に骨を埋めるなどとはまだ考えていない頃だった。
片付けをしながら、長くサラリーマンをやったとあらためて思う。
冬、夏と一着ずつ作っていたスーツもほぼ処分できた。
『接待を伴う飲食店』で預けたスーツの名前を見られ明かしてもない私の名前を女の子に呼ばれてからずっとイニシャルを刺繍していた。
そしてある時期からは買った年も入れていた。
つい最近まで着ていた気に入ったスーツだった。
1994年、四半世紀前のスーツであった。
すべて私の人生の遺物である。
そしていつかは片付けなければ残る者に迷惑をかける遺物である。
まだまだある遺物、引越しはこの整理にちょうど良い。
これが最後の機会になるかは分からぬが、遺物の発掘のたびに過去に戻らぬよう今回は目をつぶって片付けに邁進するつもりである。
◯以前のフェスゲの話