京都で過ごした時間 その10
営業所長は途中から和歌山営業所長の兼務もするようになった。
どちらも営業マンからしたら特殊な地域である。
所長は京都を離れていることもあり、一人で行動する事が多かった。
報告はほぼ口頭だったと思う。
大阪支店では、なんでもかんでも報告書であった。
私には最後まで理解出来なかったのだが、同じ会社で求める利益は同じ財布の中に入っていくのにナワバリ意識みたいなを持っている先輩方がたくさんいた。
同年代にもいた。
仮にも一部上場の会社に入って来ている連中が、その経緯を明らかにすれば誰がその受注に貢献したかは白日のもととなると思っていたがそうでない人間の方が多かった。
だから、簡単に言えば金にならない事には近づかないようにし、手柄になる事にはオレだオレだと声を大きくするのであった。
考えればこのことも辞めた一因かも知れない。
それが無かったのが営業所長だった。
自由にいろんな事をやらせてくれた杉村所長に感謝する。
民間営業では関係することの無い世界へも連れていってもらった。
その後の私の人生の大きな支えとなった。
たぶん、大阪支店で一番たくさんの上司に仕えたと思う。
多くのやり方を見て多くの狡さを見た。
全てはそのあとの私の人生の糧となり、今に続いている。
京都でやったことはまだ生々しいような気がして指が動きにくいのでまた次の機会にしたい。
このあと大阪支店から新しい営業所長がやって来た。
過去、私の上司でもあった方であった。
大阪支店のやり方を京都に持ち込もうとしたがうまくいかず、一年で支店に帰っていった。
一足先に私は大阪支店に談判してに支店勤務に移動した。
そして辞めた。
京都で過ごした時間の第三期はゼネコンをやめた後のことである。
その11以降はそのうち気が向いたら、進めます。