京都で過ごした時間 その2
京都ではたくさんの個性的な方と出会い、たくさん勉強させてもらい、たくさん迷惑をかけて、たくさん世話になった。
中でも当時の京都営業所長は個性的だった。
当時の私のいたゼネコンは外回りを始めたら多くのお客さんたちから『あんたの会社の営業マンは野武士の集団だ』と称されていて驚いた事がある。
それくらい個性が強く、ガンガン前に進む営業マンが多かった。
でもそれくらいでなければ仕事など受注できるものではなかった。
バブル手前にゼネコン業界で一番に一兆円の受注を超えた時代はそんな先輩方によって作り上げられたものだったのである。
とりわけこの営業所長は別格な個性の塊の人間だった。
会社の創業家の一つの出身だった。
実家は造り酒屋で自由になるお金をたくさん持つ方であった。
半年に一度くらい会社の接待費で落とせない請求の処理を任せられた。
個人の通帳を託さて住友銀行四条支店に社用車で行く途中、運転手さんに「勉強のためにのぞかせてもらいなさい」と言われ今また見たことのない額に驚いた。
ただ毎晩酒を飲むだけではなく毎期のノルマは達成していた。
京都は特殊な地域で、顧客以外の多くの関係者との付き合いが必要で、それに加えて世の中の仕組みを知らなければ儲かる仕事は出来なかった。
ある時京都市内で当時の日本でも先駆けであろう有料老人ホームを建設した。
山の斜面に貼り付くようなその建物を完成させるには多くの土砂を運び出さなければならなかった。
地元住民は反対して工事はストップした。
それを解決したのはその所長であった。
計画地の裏の山はその十年以上後に出来上がる旧帝大の新キャンパスの造成工事が他社の仕事で始まっていた。
そしてなんと普通では思いもつかないのだが、その造成地に土砂を運び込んだのである。
広大な造成地に運び込めばその土砂は最終出来上がる地盤高の誤差の範囲にしかならないのであった。
こんな裏技は誰も考え付かないであろう。
ゼネコンの世界と技術と世の中のことが分からなければ出来ないことである。
この営業所長の話だけで、その10くらいまでいくかもしれない。
話しはなかなか進まないが、今日はこの辺にしておく。
登場人物を知っていただいた方がこの先の話は理解しやすいと思うので。
そうそう、後日談で知りました、私が好きでなかった事務課長は反対していた近隣地元住民だったそうです。