スタンディングみや(でした。)

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懐かしい思い出(営業編)の番外編

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私のゼネコンでの営業時代。

それは人との出会いであり、まだ若かった私とあまりにも強烈な百戦錬磨の個性達とのぶつかり合いでもあった。

 

どんなふうに文章にするか考えたがまだ全てを書けない。

あと10年後に、もう少し記憶が虚ろになってからにしようと思う。

私の頭の中ももっと丸くなっているかもしれない。

 

ほんの少しだけ、一部だけを書いてこの(営業編)は一旦終了としよう思う。

 

人は何のために生きているのかを考える10年間だった。

給料をもらうため、生きていくための仕事であることは間違いないのだが、超えてはならない線があるように思う。

それを超えることが出来る上司がいた。

 

私の上司はよく代わった。

上司が代わったのではなく私が移動させられたのだが。

どの上司も仕事が出来る男ばかりであった。

 

無から有を生み出す建設業の営業に定石は無い。

手引書を作るのは難しい。

土地ありきでスタートするマンションの営業はそれなりの確立したやり方があると思う。

手引書が作れそうだ。

でもマンションの営業はやった事がない。

 

マンション建設のための受注した後の地元調整にはいくつか借り出された。

阪神大震災の翌年西宮市内で受注したマンション建設、周囲の道路は狭く大型車両は通行出来なかった。

震災後の地元の皆さんには以前とは違う神経質さと妙な連帯感があり、市の許可はおりたものの町内会との細かな付き合いが必要だった。

竣工までの一年間はほぼ毎日現地に行った。

トラブルがあっても無くても行った。

周囲の喫茶店に行き、お好み焼き屋に行き、飲み屋に行き、散髪屋に行き、テーラーではスーツもワイシャツもオーダーした。

月に一度は日曜日に息子を連れて行き、二人で散髪を済ませ喫茶店で昼飯を食べた。

そんな泥くさいやり方しか方法は無かった。

当時の上司には24時間、365日での営業を強要されていたので気楽に一人で動けるだけあまり気にならなかった。

 

大阪支店のあった京橋から西宮北口までは私の読書の時間だった。

経理課長には定期券を買えばよかったなと言われた。

朝も夜も無い地元対応であった。

でもこの発注者の目に留まり後の転職につながった。

 

もう一つ記憶に残る地元調整は京都の真ん中でのマンション建設であった。

事務屋時代を過ごした京都に出戻りであった。

着任当日に挨拶も早々、いきなり連れて行かれたのはマンション計画の発注者との打ち合わせの席だった。

『近隣調整の責任者です。』と紹介されてスタートした。

 

地元に払う金を決めなければならなかった。

交渉先の自治会長は『あんたらは建築基準法に則って仕事を進めてくれている、、』とその時は好意的に思えた。

金も決めてくれた。

そのあと一軒一軒同意書にハンコをもらった。

おもに夜の仕事である。

ホモのビルオーナーには夜遅く呼ばれた。

一人で来いと。

目薬でも入っているのではないかと心配しながらビールをご馳走になり、世間話をしながら手料理を平らげて丁重に礼を言い、ハンコをもらい帰らせてもらった。

 

全て同意書は揃ったが、一軒だけ払う金額が大きく不審に思っていた。

自治会長に聞いてみた。

なんと自治会長の内縁の妻だったのである。

前口上と違う本心を聞いて驚きもあったが、納得した。

京都人の本質を見たという感じだった。

すべてがそうではないが、京都で出会った人には心を開いてはならない人が多かった。

 

近隣調整は付録であって営業マンの本来の仕事ではない。

 

私のこの懐かしい思い出の本当の続きはまたいつの日かここか、どこかに記したいと思う。