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母、松田ハルヱ

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母、松田ハルヱは長野県上諏訪日本赤十字病院の前身の乃木陸軍病院終戦を迎えた。

母は昭和5年山形県東置賜郡赤湯町の農家松田家の三女として生まれた。

母の出生後早くに母の母、私の祖母は他界してしまい、男手で育てられているようだが詳しいことは私にはわからない。

終戦前の昭和19年に乃木陸軍病院に奉職した。

いい思い出は多くはなかったのかも知れない、母は多くを語らなかった。

母は南方に出征していた兄に会いたくて志願したと、それだけは本人の口から聞いた記憶がある。

最年少での奉職だったことも。

父親に黙って受験し合格通知が届き、それを見つけた祖父は泣く泣く「お国のためだ」の合言葉とともに送り出してくれたことも。

とんでもない時代だった。

そして母は多くを語らなかった。

 

愛する人を置いて戦地に向かわねばならない。

帰って来れるかわからぬ愛する人を送り出さねばならない。

自分の意思に見せかけた、総てを正当化してしまう『お国のために』という合言葉とともに。

 

母から聞いた数少ない記憶、「初年看護婦は結核病棟が担当だったのよ。寝ている兵隊さん達の血痰ツボの処理が仕事だったのよ。」と聞いた記憶がある。

「タンを捨てに行く時にはいつも表面張力で血痰が盛り上がっていたわ。」とも。

母たちはたぶん看護のスキルを伝えられることは無く、一労働者として傷痍軍人たちの身の回りの世話をしていたのだろう。

 

母たちの年代は皆こんな思い出を抱えて生きてきた。

そして今日8月15日に嫌でも思い出さねばならないのである。

しかし母はアルツハイマーによって解放された。

認知症による功徳があるとしたらこんなことくらいではないだろうか。

風化させてはいけないと言うが市井の人々の記憶や思い出は時間とともに消え失せていくのは仕方ないことであろう。

私は時折思い出す母の言葉を残していくだろう。

母ハルヱの生涯を文章で残すことが何も出来なくなった今、せめてもの親孝行と思っている。

 

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母と兄、昭和37、8年だと思う。