ポストの前で考えたこと
各メディアの電子化のなか、新聞の購買が落ちて大変だとずいぶん前から言っている。
確かに購買部数は減っているだろうが電子版新聞は結構人気があると思う。
気になる記事はスクラップせずとも保存出来るし、シリーズをまとめて読んだり、検索出来たりとうれしい機能が満載である。
利益率は高くずいぶん新聞社の中で貢献しているのではないだろうか。
ゼネコン営業駆け出しの頃が懐かしい。
新規の得意先に斬り込む方法を考えるために図書館に行った。
その会社の歴史を調べたり、紳士録でキーマンの経歴を調べたりした。
今の若者には紳士録など分からないだろう。
パーソナルコンピュータなるものが会社や家庭に入り込む前のことである。
紙の新聞が減って本当に困っているのは販売店舗であり、材料である紙のメーカーであり、巨大な紙のロールを運ぶ運送業者であり、出来上がった新聞を店舗に運ぶ運送業者であろう。
ひょっとして廃品回収業者も仕事の内容が変わっているのだろうか。
いずれこんな世の中が来ることはわかっていたであろうが、手を打つすべは無く新聞配達はもっともっと廃れていってしまうのだろうか。
寂しい限りである。
子どもの頃新聞配達にはある種の思いがあった。
あれならば俺でも出来る。
家を出て新聞配達をしながら中学校に通おうと真剣に考えていた。
住み込みという言葉を知り、その中での赤の他人との生活に憧れた。
家から出ることに憧れていた。
それだけである。
そのうち新聞配達少年なんて言葉は死語になろう。
電子化で消えて無くなるものの一つに数えられるのであろう。
京都駅前の中央郵便局のポストの前で信号待ちをしながらそんなことを考えていた。
紙の本も無くなって欲しくない。
手書きの手紙やハガキも無くなって欲しくないと。
最近、母、兄に加えて一人での生活が始まった伯母さんにもハガキを書くようになった。
たぶん死ぬまでインターネットやAIやらを直接手にすることの無いこの人達には
絶対無くしてもらっては困るシステムだ。
手の掛かるものに気持ちがこもる、こんな事をいつまでも残してもらいたいものである。