スタンディングみや(でした。)

大阪で元気にやっています!

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これも無くならなくてもいいと思うもの

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もうそろそろ11月も終わるちょうどこの頃だった。

蒼く高い空を覚えている。

もう50年近く前に岡山県の某市まで行った。

小学生六年の時に一人で新幹線と伯備線を乗り換えて行った。

年子の兄が脳の手術を受けた。

 

かなりグレーな合法な手術だった事をほんの数年前に聞いた。

その時母は兄のために必死で前後の見境がついてなかったと私に説明してくれた人は言った。

聞かなくともよかった。むしろ聞きたくなかった。

 

大阪の某大学病院を追われて岡山県の病院にたどり着いた医師は世間からの賛否両論の批評の中メスをふるい続けたのである。

兄のてんかんは良くならず、より複雑なものになり、半身には不随が残った。

 

そんな兄を一人で見舞いに行き、病室で一泊してきた。

個室の兄の横の付き添い用のベッドに寝かしてもらい、母はソファで寝た。

夕方病院の近くにあった団子屋で食べさせてもらったみたらし団子が美味かった。

 

それから数十年、ゼネコンを辞めて大阪の鉄道会社の設計事務所に勤めていた時にゼネコン時代の岡山の先輩から声がかかった。

こっちで仕事をしないか、と。

その舞台が兄、母を訪ねた某市だったのである。

 

ほぼ記憶から消えていた某市まで行った。

病院は残っていた。

ぽつぽつと暗い思い出が蘇ってきた。

その時、私がいてはいけない場所のような気がしていた。

 

仕事は社会福祉法人の高齢者介護施設、その法人の役員には某市の首長も入っていた。

今回の入札に疑問があり、新しい設計業者を入れたいという意思を持った方がいた。

 

大阪に戻り入札の準備をしていた。

そこへ顔色を青くした電話を受けた女性職員が「某市から電話です。」と寄って来た。

電話を受けると「君はどういうことをやろうとしているのか分かっているのか。」と恫喝するような声で言ってきた。「分かっていますが、あなたも今言っている意味を理解してますか」と問うとしばらくの沈黙の後、首長は電話を切った。

 

結局入札は辞退した。

コンプライアンスの厳しい会社からやめてほしいと言われた。

辞退届を持参して、帰りに岡山市内で先輩に腹一杯酒を飲ませてもらった。

 

私がやろうとした事がその頃は建設業界ばかりでなく世の中で当たり前だった。

 

特定の業者が暴利を貪るためにこのシステムを行使するとだけ考える方には悪いシステムであろう。

そんなこともあったかも知れない。

しかし、世のため人のために発注者から望まれる事もあった。

そして、叩き合いの入札では生まれない適性な利益で下請け孫請けまでが十分潤ったのだ。

 

このシステムも私が無くならなくてもいいと思う一つである。