スタンディングみや(でした。)

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懐かしい思い出その3

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事務の仕事は私に向かなかった。
数字を追い、たたく電卓は毎回違う数字を示した。
電卓のせいだと思い給料をもらうたびに電卓を買い替えた。
しかし電卓のせいではなく、私には数字を追いかける才能がなかったのであった。

 

入社当時の会社の経理処理はまだ伝票会計で、パーソナルコンピューターの登場までにはまだ時間があった。

経理担当の女性の方は朝から晩までB6サイズの伝票を切り続け、やる事のない事務課長はその女性を目の敵のようにして毎日お小言を言い続けていた。

 

事務所の階上が寮というのはよろしくない。

当時はまだプライバシーなんて英語は日本に上陸していなかったのかも知れない。

手が足らなければ休みでも駆り出され、夜遅くまで仕事した。

当時の寮には食堂も炊事する場所も無かった。

朝飯は事務所の目の前にあったパン屋で出来たばかりのパンを買って食べた。

事務所の鍵を開け、シャッターを上げて掃除を済ませるとパン屋に寄って一たび部屋に戻って朝メシとした。

揚げたてのカツを挟んだカツサンドが美味く、いつも朝メシはカツサンドだった。

昼は少し歩いたところにあった中華料理屋が気に入っていた。

若い店主が作る中華丼が美味かった。

中華丼にこうでなければならないという定義は無い、どこにでもありそうな中華丼であったが私には毎日食べても飽きない味だった。

しかし、ある日突然閉店する。

噂によると近所にある反社会的組織が開催する非合法のトランプゲームで借金を背負って店をやめてしまったとの事であった。

 

京阪電車藤森駅から徒歩圏内の事務所、商業と住宅の混雑する街であるのだが当時は純粋に食事をすることの出来る定食屋のような店は無かった。

晩メシを食べようと思っても遅い時間には飲み屋しかなかった。

上司たちと遅くなると居酒屋でご飯の代わりに酒を腹に流し込みそのままタクシーで祇園まで行った。

 

週末に寮の先輩に声をかけられて事務所から徒歩5分のスナックに連れて行ってもらうのが楽しかった。

純粋なスナックであった。

その店の名前を今でも憶えている。

『バレンタイン』、三人姉妹がそれぞれ店を持ち、一番下がこの店である。

二番目は京阪伏見稲荷の駅近くに『ライラック』という店、そして長女が祇園で『紫ラン』という店をやっていた。

どのママも気が良く、良心的な店であった。

 

京都では多くの素晴らしい上司や先輩に恵まれて私は社会人、いや人間として育ててもらったように思っている。

 

景気のよい時代であった事、よい意味での年功序列の残っている世の中は落ちこぼれた人間を進むべきレールに引き上げてくれた。

時代背景ばかりではなく、そんな色合いの濃い個性の強い会社だった思う。

いい会社だったのである。

会社に組合組織は無く、それに疑問を投げかける職員も私の周りにはいなかった。

 

当時の社長や役員たちは雲の上の存在であった。

でもその中に偉い人物がいたんだと思う。

建設業ばかりではないが、人が動いてくれなければビルも道路も出来はしない。

岡林信康の『山谷ブルース』の世界なのである。

 

向かぬ事務でスタートしたゼネコンの世界は今考えると案外自分に向いていたのではないかとも思う。

現場では戸籍を持たね作業員の存在に驚き、上場会社の経営者と話しをし、役所の方と世の中に仕事を生み出すこともあった。

さまざまな人間との出会いは私の人間形成にさまざまな影響を与えているのは間違いない。

 

ここで文章を書くことによって自分の生きて来た道を振り返るだけではなく、残りの人生に活かせることが出来ると思っている。

 

私のゼネコンでの『懐かしい思い出』はまだまだ続く。