懐かしい思い出(営業編)1
三十の歳で営業に移った。
京都出張所で営業の修行をするものと思っていたが、そうはいかなかった。
大阪支店営業部は未知の世界であった。
当時の営業部は平均年齢が高かった。
時代のせいであった。
高度成長期の名残だったのだと思う。
建設業界は営業をしなくともそこそこ仕事はあったのだ。
特にバブル絶頂に向かう時期で世は湧いていたのだ。
インフラ整備の続いた高度成長時代は土木の仕事を中心に官庁から発注され、その工事は各社に上手く振り分けられていく。
そのためにも官庁営業の各ポストは旧建設省のOBを筆頭に多くの省庁からやって来ていた。
解体された国鉄の方もいた。
必然的に平均年齢は上がる。
そんな時代には本当の意味での営業マンは必要がないのである。
土木の仕事は100%近く官庁発注の仕事である。
当時は土木の仕事の方が量が多かった。
土木屋の方が会社でなんだか偉そうにしていた。
しかし賢い営業部のトップは先を見通していた。
いずれ土木の仕事は天に届き下降に向かう、民間の設備投資に向かっていかなければならないと。
そのためにも若い営業マンを育てよう、という考えが生まれていた中に放り込まれたのである。
当時の大阪支店営業部の雰囲気は悪かった。
平均年齢は50を超えていただろう。
営業部長がたくさんいた。
大現場を終えて上がってきたポストであったり、たくさんのOBの方の落ち着く場所であった。
民間営業部のトップが恐かった。
皆が恐がっていた。
四半期に一度の民間営業目標案件の説明戦略会議が来るのを皆が怯えていた。
しかし、言う事は道理に基づく正論で、なるほどと考えさせられる事がたくさんあった。
そのトップの指示で再び発注者の元に向かい、受注に結びついた案件も私が見ている中でもあった。
バブルで各社が抱えてしまった不良債権が大阪支店でゼロだったのはこのトップの功績である。
人間同士の中で発注、受注となる。
多くの競合他社もおり簡単に進む話ではない事を承知の上で厳しい指示を出せるトップであった。
周りはいつも凍りついたように静かだった。
朝礼が終わると皆すぐに席を立ち、営業先に向かって行った。
私はメインのラインに入れられた。
直属の上司の課長には口では表現出来ないほど公私ともに世話になった。
会社の雰囲気を理解させる意図もあったのだろう、最初の頃はよく一人会社に残された。
私の席はそのトップの真ん前だった。
トップの大きな机の真ん前に背を向けて座っていた。
周りに誰もいないから何かと用事を言いつけられるのだがいつまでも私の名前を覚えてくれないようであった。
『おい!』と呼ばれるのが嫌でずっと黙っていたら消しゴムが飛んできた。
そして机に向かうと電車賃に使える小銭に替えてやるから千円札を持ってこい、と両替をさせられた。
トップの人間両替機はしばらく続いた。
営業の仕事は辛く面白かった。
半年の間に7キロやせた。
慣れない中での緊張もあったが、腸炎で一週間会社を休んだ。
ウィルス性のもので、こと無きを得たが検査前に医師にストレスの潰瘍の可能性があり、もしそうであれば治らないと言われて生まれて初めて自分の病気というものを意識した。
どこかの国の総理大臣が苦しんだ病をよく理解する。
営業時代には本当にいろんな経験をした。
本当の多くの人に世話になった。