スタンディングみや(でした。)

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懐かしい思い出 その1

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社会人になって初めての会社というのはいろんな意味で懐かしいものである。

建設業などにまったく興味は無かったものの、弾みで入ってしまったゼネコンで現場事務、営業をやりその後も結局は建設業界でメシを食わせてもらい気が付けば三十年以上もの時間が過ぎてしまっていた。

 

良い思い出も悪い思い出もたくさんある。

世話になった人もたくさんいる。

今ある私はそんな思い出を作った経験とお世話になったたくさんの人たちのお陰で存在しているように思う。

 

そろそろ時効になっている思い出をここに記そうと思う。

 

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入社しての配属先は生まれて初めての京都だった。

営業所であったが、現在の関西支店ほどの仕事をやっていた。

久しぶりの新入社員ということで皆さんに可愛がってもらえた。

 

京都営業所長は名物所長だった。

当時のその会社には個性的な社員がたくさんいた。

大変お世話になったその所長は会社の創業家の一つの出身だった。

親戚に造り酒屋もあり、裕福なお宅の出身だった。

 

当時のその会社では中元、歳暮、季節の付け届けが激しかった。

とは言うものの支店長は原価にも厳しいどんな赤字も黒字に変えるやり手の支店長だった。

 

毎晩のように祇園先斗町で客と飲み歩いていた所長の交際費は群を抜いていたようで、支店長には当然目をつけられていた。

 

そんな所長にある日声をかけられた。

『宮島君、スーツを持っているのか?』

当時営業所の事務はユニホームでスーツなど着たことはなかった。

3階の独身寮に戻りすぐに着替えて降りて来た。

会社の社用車に一人乗り込み、運転手さんとともに京都の北の高級住宅街に向かった。

 

着いた先は支店長のご自宅だった。

何をしに行かされたのか、絶対通らない贈答伺いの決済をもらうために支店長のご自宅にまずは届け物を運んだ。

親戚の造り酒屋から買った酒と酒粕が営業所の会議室を半分埋めるほど積まれていた。

すべて京都営業所独断で用意した贈答品だった。

 

支店長の奥様はすべてを受け入れる寛容なお人だった。

二つ返事で受け取ってくれた。

社有車に備え付けの電話で所長に連絡を入れた。

『分かった。よくやった。』

ほめられたのは、最初で最後かも知れない。

 

それからがスタートだった。

翌日朝から京都の北から南まで世話になっている発注先の社長宅から、エラい先生方、怖い団体の代表者のご自宅など酔うほどの匂いに包まれた車に乗って運び続けた。

 

ほどなく贈答伺いは決済されて営業所に戻ってきた。

数百万の酒と酒粕であった。

 

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なるほどなぁ、と世の中や会社の仕組みが人間の心理と絡みあって成り立っている事実を知った。

 

その所長とは所長が会社を退職された後も続いた。

60歳ですぐに会社を辞め、丹波町でアトリエを持ち絵を描き、陶器を焼いて、野菜作りまでしていた。

当時私は京都府下の官庁営業も担当しており、それを知った所長に名刺を置いていけと言われて所長に預けた。

私の代わりに名刺を配ってくれたのだ。

 

現役時代、形だけの官庁営業を嫌っていた所長であった。

いまだにその優しさを時々思い出す。

 

厳しさと優しさにメリハリがあり、当時の仕事は心身共にキツかったがよく遊ばせてもらった。

時代も良かったのであろうが、社会人としての基礎をゼネコンで濃縮された時間の中叩きこまれたと思う。

 

社会人一年目、個性の強い所長のもとに集まった個性的な先輩方に育てられ、教えられて私は社会人として成長出来たのだと思う。

しかし、この個性の軍団の中での成長はそれほど生易しいものではなかった。