コーヒーを飲みながら
年度末が近づき、いろんなことを思い出す。
ゼネコンの営業時代の年度末は書類が増えるだけで、仕事は変わらない。
年度毎の目標を考え、書面にするくらい、営業に年度の区切りは無かった。受注に向けてエンドレスで走るマラソンのようなものであった。
思い返せば向かない営業をよくやっていたと思う。
他社に負けたくはなかったが、社内で足を引っ張ったり、いがみ合うことが理解出来なかった。
もう四十年前になる年度末に私は上京した。
ひとりで上京してしばらくは帰らないつもりだった。
しかし、その日仕事が休みの母は東京駅まで見送ると言って聞かない。
父は日本におらず、兄は静岡に入院していてなんの支障もなかった。
私には断る理由も無かった。
早い時間の夕方に東京駅に着いた。
そこで別れることにした。
八重洲口の地下の中華料理屋でラーメンと餃子を食べて別れた。
何を話ししたかも憶えてはいない。
まだ若かった母である。
それから母と一度も上京したことはない。
そしていつしか母はひとりで新幹線に乗れなくなっていた。
それまでの十数年間まったく帰省しなかったわけではないが郷里での記憶は空白の方が多い。
悔恨と申し訳なさが胸の中にある。
母は新幹線どころか、家から出ることさえ出来なくなっていった。
今となって母の記憶を追う。
あの日の八重洲口の中華料理屋、まだ空いた時間に広い円卓に並んで座らせてもらった。
円卓のオレンジ色が記憶にある。
餃子だけでなくピータンを頼んだ。
ビールも頼んだ。
母は変わったものが苦手、酢豚を頼んだ。
二人で食べ、二人でビールを飲んで何かを話したはずだが何も憶えていない。
ビールを飲み餃子を食べる二人の情景には声どころか何の音もしないのだ。
そして二人でラーメンをすする音が聞こえて来る。
居間にある母の写真はいつも私に笑いかける。
それでいいんだよ、と笑いかける。
言葉が無くとも通じ合うのが親子なのであろう。
それはこの世からどちらかがいなくなっても同じなのだろう。
きっと息子とも同じことか繰り返されるのだろう。