スタンディングみや(でした。)

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My Personal Weblog

懐かしい思い出その5

ゼネコンでの事務屋時代の話をそろそろ終わろうと思う。

 

当時いたゼネコンが現在どんな事務のやり方をしているか知らない。

しかしここまでパソコンが浸透した今、よほど大きな現場でなければ事務屋の常駐は無いのかも知れない。

そればかりか、事務は支店にいての集中管理かも知れない。

現場の所長に負担がかかるが十分そんな事が可能な時代である。

 

現場での私の仕事のまず最初は便所掃除であった。

下水など無い田舎の汲み取り式の便所の掃除は困難を極めた。

詰まれば職人さん達は私を呼びにくる。

専用の竹竿で突いて貫通させた。

 

職人さん達の休憩室も汚かった。

職長会なるものがあって、たまに掃除するが好んで私は掃除をした。

この人達がいなければ工事は進まない。

気持ちよく仕事をしてもらいたかった。

 

そのあと待ち構えているのは昼の弁当である。

ある意味、これが一番大事な仕事だったかも知れない。

当時一食が300円、400円の弁当であった。

朝、各会社の職人さんが何食かを申告に来て代金を置いていく。

取りまとめて弁当屋に電話して、それが昼までに配達されるシステムであった。

一覧表を作り、それをチェックしながら昼に渡すのだがたまに数が足らなくなる。

不思議だがそんな事がたまにあった。

職人さんに昼抜きで午後働いてもらうわけにはいかない。

そんな時は昼を抜き、足らなければ他の職員に昼抜きを付き合ってもらった。

 

夕刻が近づけば、近所のスーパーに走り山ほどのコロッケを買って夜は残務の仕事をしながら缶ビールを口にした。

 

こんなことばかりが仕事ではなかったが、現場が上手く楽しく回るために不可欠な仕事と思っていた。

目に見えない利益を上げる手法の一つだと思っていた。

 

ただ、いつまでもやっている仕事ではない。

建設業界に入ったばかりの若いうちに手っ取り早く業界の仕事を知るため通過する時間だと思っていた。

 

なかなか、現場から離してもらうことの出来なかった私は『いつまでもこのままならば辞めさせて下さい』と頼んだ。

 

出張所内でかなり議論があった末に営業に移ることに決まった。

当時、若い営業マンはほとんどいなかった。

時代がそうさせていたのだ。

 

次はそんな話から始めたいと思う。

 

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