京都で過ごした時間 その3
私がお世話になった京都営業所長の話をもう少し続けたい。
当時の会社には各営業所にこんな個性的な所長や営業部長がいた。
そして、当時の大阪支店の営業部は管理の立場として困っていたようである。
そんな事があってある時各営業所の扱いにくいこれらの所長、部長を大阪支店の営業部、開発部、営業事務部に無理矢理移動させたのである。
こんなやり方が利潤の追求を考える企業の行なう正しいことなのか私は疑問であった。
それでも、所長は会社を辞めることなく大阪支店の開発部長となった。
社有車か、株の配当金で買ったジャガーで通勤していた所長が阪急電車と京阪を乗り継いで通勤したのである。(配当金で買った話は本人から聞いたから間違いない)
だからいつもものすごく早い時間に会社に来ていた。
私も早く出社していたから朝だけよく話をした。
実は息子さんが私と同期入社だった。
それで可愛がってもらったのだ、仲人もしてもらっている。
そんな事も事務課長には気に入らなかったようである。
京都で大きな仕事をまとめてきた所長であったが、最後は不遇だった。
でも、よく憶えていない。
私の大阪支店の営業部時代もかなり過酷だったのである。
日中に口をきくことは無かった。
この所長に営業所長現役時代に京都の北の自治体の首長と黒い噂が流れた事がある。
でも私は知ってた。
黒くはないことを。
互いによく似た天然の世界で生きれる二人だったのだ。
会社の事を真剣に考える人、自治体の事を真剣に考える人だったのである。
会社を辞めてしばらく日本で一番デカい橋梁の会社でメシを食わせてもらった。
建築の営業をしてくれた言われて入ってみると京都の担当もさせられた。
名刺配りの役所まわりは辛かった。
その時に、もう引退した所長はその首長の持つ山を借りて小屋を建てて、趣味の陶芸と絵を描いていた。
呼ばれて何度か行った。
現役時代の緊張感は無く、絵を見せてくれ、自分で作った野菜をくれた。
そして「名刺を箱ごと置いてけ」と言う。
そんなくだらん事は代わりにやってやる、と名刺配りを引き受けてくれたのだ。
所長も「何よりも嫌いだ」と言っていたのに。
それからしばらくして亡くなった。
もちろん六十代で。
会社を辞める頃にはもうカラダはボロボロだったと奥さんから聞いた。
昭和の企業戦士だったのである。
話は明日以降に続きます。