幸せの基準
猫の話が続く、中にはお好きでない方もいらっしゃるだろうがご容赦いただきたい。
近所で我が家の飼猫トラの青年時代を彷彿させる野良猫と出会った。
わりと肉付きはよく身体も大きめでどこかでエサをもらっているかも知れない。
ケンカが強いのかも知れない。
などと考えながらこいつと目で会話をしていたのだが、ふと思った。
飼猫と野良猫のどちらが幸せでどちらが不幸なのかと。
両者の立場から考えればそれぞれの説が成り立つ。
一般的に考えれば寝る場所も食べ物もある飼猫の方が幸せだと思うが、野良猫の立場から考えればその自由さは捨て難い幸せであろう。
ふと、思いあたった。
私の考えは余計なお節介であると。
猫たちは互いに両者の世界を知る余地はない。
それしか知らない中、おのおのがそれなりに幸せにやっているんだろう、と。
人間も一緒であろう。
兄貴のような生まれついての障害を持つ人たちも皆決して不幸は感じていないのだろう。
第三者が不幸を作っているのかも知れない。
絶対多数の私たちが健常者と呼ばれ不自由無く今の生活を享受出来るのであれば、私たちはマイノリティーである生活に不自由さを感じる人たちの手伝いをするのは当然であろう。
幸せさを感じることが出来ないとすれば多分その部分が中心になるだろうから。
立場で幸せの基準は変わってくると思う。
人間の手で作ってしまった不幸の中にいない限り、どんな人間もみな幸せなのかも知れない。