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兼題『鰻』

ウナギの産地浜名湖が近くの我が故郷豊橋・豊川ではウナギを食べる機会が多かった。

土用の丑の日にはまだ早いが、いつもの俳句投稿サイトの兼題は『鰻』でした。

 

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◆今週のオススメ「小随筆」
 お便りというよりは、超短い随筆の味わい。人生が見えてくる、お人柄が見えてくる~♪

●我が故郷愛知県東三河は鰻を名産とする静岡県浜名湖のすぐ隣に位置する。

そんなわけで鰻との縁は深く、小学校の同級生に家業で鰻の養殖をやってる男もいた。 Sハルオ、通称『ハルチン』である。

ハルチンとは仲が良かった。

ハルチンは足が早く運動会ではいつもヒーローだった。

子供たちの間では鰻をいつも食べているから足が早いんだなんて噂が流れていた。

私はハルチンは好きだったが鰻は嫌いだった。

長い生き物が嫌で鰻が苦手だというのはよく聞く。

でもそんな問題ではなく、私には鰻は美味くない食べ物だったのである。

東京の下宿で生活を始めて知ったのだが豊橋、豊川のスーパーの鮮魚コーナーに並ぶ串に打たれた生の鰻の開きはかなりイレギュラーなものであった。

それにも増して我が家では月に一度くらい、母から「ハルオ君とこ行ってきて」と千円札を握らされる。

エーッと思いながら歩いて2分のハルチンの家まで行く。

声をかけるとおばさんが出て来る。

優しいハルチンの母さんだ。

ハルチンの自宅一階の広いコンクリートの土間には幾層にもプラスチックのカゴが積まれた塔が何本も立っており天井近くのコックから、汲み上げられた地下水が流れ続けていた。

もちろん中には生きた鰻がいる。

地下水で泥を吐かせていると聞いていた。

おばさんに千円札を渡すとカゴから大きな鰻を一匹器用につかみ出し使い込んだまな板に置いて千枚通しを鰻の顔に打ち、裂き、切り、串を打ってくれた。 そうなのである、我が家では鰻の蒲焼きは自宅の台所のガスコンロで焼くものだったのである。

しかも、母がタレを作っていた。

専門料理店などに行ったことのない私には鰻は美味くない食べ物だったのである。

そして東京で下宿生活を送っていた時である。

合気道部の先輩がバイト代が出たから鰻を食わせてやる、と言う。

合気道部では先輩には絶対服従であり、その代わりという訳でもないのどが、金を払ったことは一度も無かった。

連れて行かれたのは新宿西口のしょんべん横丁の入口にあった怪しげなウナギ屋であった。

ウナギ丼が松竹梅のみならず、五段階くらいにランク分けられていたように記憶する。

その中で一番安い350円の丼をご馳走になった。

当時でもかなり安いウナギ丼だったのである。

が、しかしである、表面がこんがり焼けた鰻の身とタレのしみた熱々のご飯を口に運ぶと私のそれまでの常識の天と地はひっくり返ったのであった。

鰻が美味かった。

ひたすら美味かった。

子どもの頃には当たり前と思っていた家ごはんの蒲焼きであったが、今となっては実はかなり稀有な体験を持った日本人ではないかと自分の事を思うようになった。

 

職業婦人であった母には感謝している。

私の今持つ料理に対する感覚の多くは母を見てきて培ったものだからだ。

反面教師の母の料理は子どもの私に料理に対する好奇心や向学心を根付けてくれた。

認知症になってしまった母は私の作る料理を美味い美味いと言って食べてくれた。

子どもの頃「ひできは何を食べても美味しいと言ってくれるねぇ」と言った母は実は自分の料理の味を知っていたのではないかと思う。

口が裂けても美味しくないなんて言えない私の性格もよく分かっていたんだと思う。

だから私の作ったものを美味しいと言ってくれるのではと思い、ならば本当に美味いものを食べてもらおうと真剣に料理に取り組んでいた私がいた。

今の私があるのは実は鰻のお陰かも知れない。

この新型コロナが落ち着いたら一度豊橋あたりの鰻屋で白焼をわさび醤油でつつきながら熱燗で一杯やって鰻に感謝したいものである。 /宮島ひでき