兼題『プール』
二週に一度の俳句投稿サイトの発表の週である。
先輩に声をかけられて始めて二年以上が過ぎるが、さっぱりである。
兼題が発表されていつもひと月くらいの時間があるのだが、いつも最終日の日付変更前の数時間だけ『俳句脳』に切り替えているが、
俳句はそんなに簡単なものではない。
しかしながら毎回の兼題は、私の脳か心に仕舞い込んだ記憶を呼び覚ましてくれる。
まさに記憶再生装置である。
今回もすっかり忘れていた母と兄との夏の出来事を思い出させてくれた。
◆今週のオススメ「小随筆」
お便りというよりは、超短い随筆の味わい。人生が見えてくる、お人柄が見えてくる~♪
●『朱と赤』が私の記憶の引き出しから転がり出てきた。
母と兄との思い出である。
なぜ『朱と赤』がプールなのか説明無しでは誰も分りはしないだろう。
昭和40年代の初め、小学校にも徐々にプールの整備が進んできた。
わが故郷豊川市のそれは遅れていた。
そして、小学校にはないプールが市役所の裏の運動公園の一角に出来たのである。
子供用、25メートル、50メートルプールが揃っていた。
私たちの間では人気の市民プールであった。
学校からは健康に支障が出るとして2時間の利用時間の制限が出ていた。
夏休みの間毎日、午後の一番暑い時間をめがけて皆で出かけた。
子供用プールはぬるい風呂のようであった。
25メートルプールはなんとか小学生でも足が底についた。
25メートルプールが一番人気のプールであった。
しかし、私たちの目当ては足の届くことの無い50メートルプールだった。
私は我流の平泳ぎの泳ぎ手であった。
25メートルは楽に潜ったまま進めた。
私たちは飯田線沿いに国道151号線『長篠の古戦場跡』に向かって走る途中の『桜淵』で泳いでいた。
一級河川豊川の上流である。流れは速く淵は深く、深く潜ると心臓が止まるほど冷たかった。
そんな自然のプールで鍛えられた私は泳ぎには自信があった。
『朱と赤』は兄と私のパンツの色であった。
母はその時豊川市民病院の看護師をしていた。
夏の間当番で市民プールの救護員をやっていたのだ。
その時には一日私たちも連れて行ってもらった。
その時の母の発想で『朱と赤』となった。
私たちに万が一のことがっても、プールの底に沈んだ自分の息子をすぐに認めることが出来る。
そんな発想だったのだ。
体育会系の宮島家での母の命令は絶対で『恥ずかしい』などということを口にすることは出来なかった。
赤いパンツはすぐに仲間にも受け入れられて豊川での夏のプール三昧は楽しい思い出ばかりである。
プールから上がり、みな充血した目で心地よい疲労感とともに桜トンネルの葉桜の日陰の下を選んでたわいもない話をしながら同じ社宅に帰ったのが懐かしい。
『朱と赤』の悲劇はその翌年であった。
私が小学校4年の夏休み明けに豊橋市内に引っ越しをした。
豊橋の小学校に転校した。
豊橋の小学校にはプールがあった。
そして全員紺のパンツだった。
この時も母は学校まで出向き校長相手に自論とかかる費用を並べて論破してしまったのである。
水泳大会でクラスの代表になってしまった。
皆の前に赤いパンツで登場させられることは苦痛であった。
不登校など考えることの出来る家ではなかった。
図太い神経を持ち合わせた私でもなかった。
翌年はみなと同じ紺色のパンツを買ってもらい真剣に泳ぐことはやめた。
じっと目立たぬ小学5年生を演じた。
怖い母ではなかった。
優しい母であった。
ただ、弱い者いじめや筋の通らないことは許さぬ母であった。
『プール』と聞けば私には『朱と赤』のパンツ、母の強さと優しさを同時に思い出させる記憶再生装置の触媒のようなものなのである。 /宮島ひでき