スタンディングみや(でした。)

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京都で過ごした時間 その4

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『京都での私の時間』の第一期は営業所での事務と現場での事務であった。

 

事務課長に嫌われて現場に出され、ある意味気楽になったが誰も仕事を教えてくれない、現場所長に教えてもらいながら見よう見まねで書類を作り毎月のルーチンを必死にこなした。

 

事務課長に嫌われたのにはキチンとした理由がある。

当時の営業所には婚期を逃した女性が二人いた。

そのうちのおとなしい女性を事務課長は目の敵にしていじめていたのだ。

少しドンくさい女性だったが気は悪くない、真剣にやって間違えたなら仕方ないから許してやればいいのにその女性に対してだけ厳しかった。

まわりが気分悪くなるような罵り方を平気でした。

誰もいない時にその事を事務課長にやめてくれと言った。

それが一つ。

そしてもう一つは毎晩のように連れて行ってもらった祇園の飲み代だ。

営業所長の接待費に紛れ込ませたり、下請けの社長にまわしていた。

もと反社会勢力組織の構成員だった土建屋の社長は営業所長に諭されて足を洗い、土建屋を始めたそうである。

若い頃粗相をしたのと、足抜けのために両手ともが自傷行為で欠損部分があった。

子どもが生まれて生き方を変えるように営業所長から諭されたと本人から聞いた。

この社長に大半の請求書をまわしていた。

この社長は私をとても大事にしてくれた。

営業所長に私が可愛がられていたのが大きな理由だった。

この事も事務課長に嫌われる大きな原因だった。

 

そんなこんなで私は現場に行った。

最近亡くなった平井所長の最後の現場だった。

このあと現場を卒業して営業所の次長となり、そのあとは大阪支店に上がっていった。

 

現場の仕事は大変である。

地震、台風の天災から現場の事故、近隣住民の苦情、作業員同士のトラブルそして反社会勢力の人への対応など教科書には出てこないであろう雑用がたくさんあり、それらへの対応は平井所長と私の役目だったのである。

 

京田辺の大住台に古い宿泊施設があった、それを会社のOBで嘱託で営業をされてた広島さんが仲介され、大阪本社の大手電器器具・建材メーカーが買い取り設計施工で研修所を建設した。

大きな現場であった。

当時、私は京都市内の西院に住んでおり阪急、近鉄近鉄バスを乗り換え朝一番に現場に入っていた。

 

まずは便所掃除である。

下水など無くもちろん汲み取り、作業員さん達は掃除する人間の事など考えてようたしはしない。

朝からやりがいのある便所掃除だった。

そしてよく詰まった。

その時は私に声が掛かり、専用の竹棒を持っていきつついた。

午前中は掃除や作業員さんの新規入場者教育と弁当の手配で終わった。

この弁当の手配が大変だった。

一覧表に各会社の人間が来て注文数を書いていき、その集計を私が弁当屋に注文するのだが時々数が合わなかった。

近くにコンビニがあるわけではなく、そんな時は平井所長が昼を抜いてくれた。

いつも自分の事務仕事は午後の遅い時間にスタートだった。

途中、買い出しを言いつかり地元のスーパーまでコロッケを買いに行った。

そして平井所長は缶ビールを開ける、宮島も飲めと言われるままに飲みコロッケを食べた。

竣工までに体重は5キロ増えた。

 

毎晩帰りは最終電車に近かった。

当時建築屋で一番若かった手鹿さんが施工図面を書き、最後までいた。

あとで考えると私を心配して最後までいてくれたのかもしれない。

近鉄向島駅まで少しでも近くなるからといつも送ってくれた。

 

私の現場事務員時代はそんなふうに始まった。