八尾の新米と俳句の頭
ご近所からお米を頂戴しました。
八尾の新米です。
八尾にいても四季を感じます。
春夏秋冬を考えていました。
合気道部の先輩に俳句を勧められてから特に敏感になりました。
しかし、わたしの感じる四季は本当に俳句を嗜む方々のように風雅なものではありません。
その時期、その季節での思い出であったり感じる事は現実的な事の方が多いです。
ずっとこの日本で育ち、四季を特別に感じたり考えることはありませんでした。
中学の頃、図書館で読んだ本で四季の無い国があることを知りました。
ずっと高温多湿な熱帯のジャングル、雨季と乾季しかない乾燥地帯、長い昼と長い夜のある極寒の地、もちろん当時はインターネットなんてありません。本にある一枚か二枚の写真で想像を膨らませるしかありませんでした。
それでも当たり前に生きてきたこの四季を特別に感じはしませんでした。
しかし、今事あるごとにいろんなことを思い出すきっかけは春の訪れを感じる日差しであったり、夏の熱く湿った空気であったり、瞬間でその訪れを感じさせる秋風だったり、身動きもしたくなくなるような冬の冷たさだったりしました。
すべてが私の記憶の引き出しを引いていきます。
嬉しかったこと、楽しかったこと、辛かったこと、悲しかったことを。
思い出す方法を教えてくれたのが俳句だったかも知れません。
俳句を作る過程でいろんな事を思い出しているんですね。
ですからなかなか俳句の完成にたどり着きません。
いい俳句が詠めるわけないですよね。
と、言うわけで今回の俳句投稿サイト兼題『重陽』での結果はいつものように『並』でした。
俳人の頭になるのはなかなか難しいです。