所有からアクセスの時代
今朝のNHKのラジオでラジオカセットの復活の話をしていた。
この時に出ていた言葉が『所有からアクセス』だった。
現代を象徴する言葉だと思う。
昭和の終わりに社会人となった私の知る会社の事務所は、まだコンピュータなど登場せず、各人の机には電話と書類が机に山積みになっていたりした。
今でもそんな事務所は残っているだろが、最近の私の知る経営者はなるべく机には物を置かずノート型パソコンが一台だけ置いてある。
必要な情報はすべてそこから取り出せることは理解出来るが、言葉にならない違和感がある。
危機管理のために書類でもデータを残すべきだということではなく私が思うのは感覚的なものである。
書類を整理していつでも取り出せるようにすること以上にコンピュータへのアクセスやデータを整理保存するほうが使い勝手もいいに違いない。
でも本当に物を考えたり、感性を大切にするならば1+1=2の世界じゃない方がいいと個人的に思う。
キーボードを叩いて出てくることがすべてが正しくはないことを理解して、その時々の流行りのようなもので考え方が流されてはならないことも自覚が必要だと思う。
カセット、レコードが復活するのにはその音楽性もあれば、ジャケットにもあると言う。
私にも記憶に残るジャケットもあれば、入社して初給料で買ったポータブルのイヤホンで聞くカセットレコーダーもまだ持っている。
見れば、手に取れば思い出すことや感じることがある。
紙の新聞も無くなって欲しくない。
もちろん紙の書籍も。
3Dプリンターに負けずに白模型も残らなければならない。
断捨離しても手元に万年筆は残したい。
いまだに駆け出し営業マンの頃、毎日書かされた手書きの日報を残している。
下手くそなその字を見ると当時を思い出し、新鮮な気持ちも思い出せる。
アクセスの情報ばかりになってしまったらどうなってしまうのだろう。
世の流れとは言えど虚しさを感じずにいられない。
走り書きですみません。