兼題『蕨餅』わらびもち
多くの行事がコロナのために規制がかかり、大相撲大阪場所はコロナ場所となった。
生まれて初めて見る風景である。
なんだか違うモノを見ているようである。
でも、久しぶりにテレビのスイッチを入れ神聖さを感じたのは私だけであろうか。
大相撲協会はじめ、この大阪場所でこの時期のしのぎをしなければならなかった法人、個人がいたはずだ。
先が見えないってのは本当に不安で恐ろしいと思う。
終わりが見えなくとも、コロナとの上手い付き合い方を早いこと示して欲しい。
ルールの無いスポーツ競技は無い。
格闘技もルールが無ければただの喧嘩であって殺し合いになってしまう。
保つ秩序のために早くルールを示して欲しい。
100%は求めはしない。
勝手なルールを作り出す人間が現れる前に。
そんな時期にそろそろかかってくるのではないだろうか。
今週はいつもの俳句投稿サイトの発表の週、本日が『お便りコーナー』の日でした。
私の投稿した文章です。
◆今週のオススメ「小随筆」
お便りというよりは、超短い随筆の味わい。人生が見えてくる、お人柄が見えてくる~♪
● 今のように情報も物も溢れていなかった昭和の時代それも30年代のことである。
私たち家族は愛知県豊川市にある父の勤める会社の社宅で生活していた。
その当時標準であった公団アパートのような2DKで生活していた。
風呂は共同、2棟の建物の間に大きな共同風呂があって、風呂焚きのおじさんも会社の職員だった。
母に尻を叩かれ、悪友たちとまだ明るい夕方に一日の汚れを落としに行った。
父たちのいないまだきれいな風呂場も私たちの遊び場となった。
そして、大騒ぎをしていると必ずおじさんが私たちをたしなめにやって来た。
そして毎回私たちに疲れて帰ってくる父たちのために風呂はきれいに使えと諭してくれた。
血のつながらない大人が子供を真剣に怒ることの出来た時代だった。
そんな大人たちに私たちは育てられた。
近所に在った大きな空き地に毎月一と五のつく午前中に市が立った。
平成元年生まれの息子に話してもピンとは来ないと言う。
まだスーパーマーケットなどは無かった。
母は食料品を中心に日用品を買い求めていたのだろうと思う。
母が何を買っていたのか憶えていないが途中あきて帰りたがる兄のために必ず団子を買ってくれた。
団子屋の屋台は市の入り口にあった。
当然最後にその団子屋の前を通る。
買い物の途中、「もうすぐお団子よ。」と母に言われて兄も我慢して歩いたのだ。
団子屋にたどり着くと兄は『きな粉』、私はいつも『みたらし』だった。
焦げのある香ばしい『みたらし団子』を一本だけ買ってもらって帰り道を歩きながら頬張ったのが懐かしい。
障害を持つ兄は我がままであった。
そしてその我がままはいつも通った。
兄はいつも二本の団子を両手に持って帰った。
母は私にもう一本頼むように言ったがかたくなに拒否をした。
母がどうして自分の分を買わないかを知っていたからだ。
そして甘い『きな粉団子』は女の食べ物だとうそぶいた。
実は団子屋の横に並んでいた『わらび餅』がずっと食べてみたかった。
でも、ゼロの一つ多い『わらび餅』のことを母に言えるよしも無かった。
私の口に入ることの無い、憧れの『わらび餅』であった。
当時、市の立つ広場も行き帰る道路も未舗装であった。
冬のある日、乾いた風が砂埃を舞い上げて兄の『きな粉団子』に新しいきな粉をなでつけた。
兄は泣き、私はいつまでもそれを黙って見ていた。 /宮島ひでき