懐かしい思い出その4
私がゼネコンで生きた原点となる事務時代にもう少し付き合っていただきたい。
ほんの四年間ほどであったが濃い毎日だった。
力を持つ、おおらかなご性格の京都出張所長の虎の威を借りる事務課長には、毎晩の会社の金を使っての祇園通いに意見を申し立てて嫌われ、出張所事務を卒業させてもらった。
そこから私の現場デビューとなった。
京都は日本海から奈良県境まで北から南に長い、そして現場の数ほど事務屋の数はいない。
事務屋の給料は現場の原価に割り振られる。
だから掛け持ちとなる。
京都北部の舞鶴市、日吉町から南部の京田辺(当時は綴喜郡田辺町)あたりまでの掛け持ちをさせられた。
そして事務屋の仕事はルーチンである。
数ある仕事の中のメインは毎月同じ時期に請求書を締めて、現場の所長の作った予算と比較を行い現場の精算予想を行うことであった。
電卓に嫌われていた私には苦行のような一週間であった。
移動時間が大きかった。
二日間は完全徹夜で仕事をした。
ある意味おおらかな、全く誰も教えてくれないそれらの作業であったがなんとか切り抜けれたのは現場の所長方の配慮であり、優しさであった。
個性的な現場所長達ばかりであった。
預かっている予算書の管理が全く出来ていない事があった。
大きな現場であった。
予算書にある生コンクリートに数種類あって、その単価は違っていた。
全くそれらの意味を理解しないまま私は生コン屋の請求を毎月右から左へと支払いしていた。
単価を間違えたままの生コンの請求は気付いた時には予算書と数百万の差異があった。
一人悩み、予算書もA3サイズの紙の台帳も家に持って帰った。
メシが喉を通らなかった。
何度も見返し、考えて自分の間違いに気づいた。
次の日恐る恐る所長に話した。
所長はカラカラ笑いながら『それで2、3日顔色が悪かったんだな』と所長室から生コン屋に電話を入れた。
その日の午後に生コン屋の社長がやって来た。
所長室で数百万の現金が渡された。
それでおしまいである。
その金は会社に戻入されはしなかった。
作業員の皆さん達との焼肉大会や暑い夏場のジュース代や福利厚生で消えていった。
『どこで使うかだけの違いだ。金は活きた使い方をしなきゃな。』と所長に言われた。
クリーンな懐の深い所長であった。
失敗を繰り返してそのたびに所長たちに助けられて一人前の事務屋になっていった。
当時は完全に原価は各現場所長に任されていた。
それぞれに個性のあるやり方があり面白かった。
どの所長方にも感謝するばかりである。
この所長の息子さんと二年ほど前に出会った。
その時のブログはこれである。
↓
https://standingmiya.hatenablog.com/entry/2017/10/31/101326
本当に多くの方に出会い、私の脳にある記憶の引き出しゼネコン事務屋の部はそろそろ満杯になりつつあった。