無駄の必要
平日の休み、蒸し暑い一日を家で過ごした。
一昨日愛知まで車を走らせ、車体には虫の死骸がたくさん張り付いていた。
やむを得ぬ事とはいえ、無用な殺傷をしてしまった。
虫たちの成仏を祈り、久しぶりに洗車した。
年に一度くらいしか洗う事はない。
若い頃には毎週洗車していた。
車や運転が趣味という訳ではないがどんなに忙しくても洗車していた。
そういうものだと思い込んでいた。
しなければならないと思い込んで日常のルーチンになってしまっている事が案外少なくなかったことが今回のコロナで分かったのではないだろうか。
仕事のスタイルや生活が変わるのは良い事も悪い事もあるだろう。
立場によっても違うだろう。
仕事ならば雇用者と労働者。
家庭ならば独力で守ってきた主婦とそこに入り込んでいく男たち。
いずれそれらの中でも時間とともに良い事も悪い事も当たり前になっていくのだろうか。
良い方向に変わるのはいい話だが、効率ばかりに向かって行かなければいいと思う。
無駄も必要である。
無駄から生まれる『有』もある。
失敗から生まれる『有』があるのと同じである。
何もしない、何も考えない時間が必要だと思っている。
そこから
「さて、」と頭を切り替える時にヒラメキがあったりもする。
とにかく、緊張は持続出来るものではない。
一人でいる時間、家にいる時間の中にも休憩時間を設けてボーッとする時間があったりするべきだろう。
私の場合、そんな時間が長すぎるのかも知れないが。