無為な努力
子どもの頃から考えることが好きだった。
小学5年、豊橋の小学校にいた。
図画工作の時間に市販で買える一番小さなモーターを使って動くモノを作りなさい。
そんな演題が出された。
大変お世話になった先生で、一昨年他界されるまで飛び飛びではあったが連絡は取り続けていた。
今思い返すと子どもたちに考えさせて想像力を育む事を考えていたのではないかと思う。
そして褒めてくれた。
私の成長過程で大きな影響を与えてくれた先生である。
さて、その演題に対して一人が軽いバルサ材を車体にしたプロペラの風力で推進する自動車らしきモノを計画した。
するとクラスの男子のほとんどがそれをマネしたのである。
一番最初に考えた男は先生に褒められていた。
私はこの授業の演題を聞いた時からヘリコプターを作りたかった。
当時の私の頭脳でも(今とさほど変わりはないだろうが)プラモデル屋で売ってるようなモーターで、そのモーター一つさえ持ち上げるだけの浮力を得ることは出来ないと分かっていた。
私の説明を聞いた先生は「うーん、」と言いながら「やってみなさい。」と言った。
軽量化のためにバルサを薄く削ったり、竹ひごを細く削ってサランラップで胴体を作ってみたりした。
でも分かっていた通り浮き上がることは無かった。
数時間かけた授業は終わり、みんなの作品、風力自動車の中に私の動かないヘリコプターも並んだ。
ドローンを一番最初にメディアで目にした時にやっぱりこんな時代が来たんだなと思った。
当時、出来ぬことは分かっていたが、考えることに意味があると思っていた。
無為な努力ってのは無いと思っている。
その努力の過程で培う何かが自分の脳や心のどこかに残っていると思う。
そしてその何かがどこかで活きたりすることもあるであろう。
無為と思われることや無駄なことはやる必要があることだとずっと思っている。