スタンディングみや(でした。)

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母の遺産

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母が亡くなってから分かったことがいくつかあったが、認知症になってから分かったこともいくつかある。

 

今日、母の幼なじみから手紙が届いた。

母と同性の女性、同級生の方だ。

母たちの郷里である山形県南陽市の南隣の米沢市から新潟県村上市坂町まで走るJR米坂線というのがある。

最上川に沿って走り途中山形県でも指折りの豪雪地帯の小国を通って日本海に向かう。

二両編成の可愛らしい電車が緑の中を走り抜けていったその先にその方は住んでいた。

新潟、山形を繋ぐその端に幸せに暮らしていらっしゃった。

 

十年ほど前、すでにアルツハイマーにかなり冒されていた母を最後の帰郷になるであろうと車で愛知から新潟経由で山形まで行ったことがある。

その時に寄り道して再会をした。

 

ご苦労をされた方である。

母には母親はいなかったが、裕福で何不自由なく生活出来る家だったそうだ。

その向かいがその方のお宅だったそうである。

時代がそうさせていたようで、極貧のその方の家に母はいつも入り浸り、二人は姉妹のように付き合っていたそうである。

母はいつも着る物を新調してもらうと必ず二着作ってもらい内緒でその方にあげていたそうである。

でも向かいの娘さんのこと、すぐに分かって母はいつも叱られたそうだ。

でも、それは続いていたそうだから母の姉達も黙認していたのであろう。

成人してからはその家から抜け出すために、母は奉職した病院で派遣された山奥のダムの工事現場の飯場の手伝いに建設会社に話を付けて山形から呼び出して働かせたそうである。

その時のゼネコン職員と所帯を持ち、暮らしている先が村上市なのである。

 

その方は母と同年齢の90歳、震える手でしたためられたその手紙には「また会って話をしたかった。近くにいて欲しかった。すぐに会えるね。」とあった。

 

母は多くを語る人ではなかった。

必要以外なことは話をしない人だった。

特に個人情報や噂話だ。

私がこんなところにこんな事を書くことも嫌うはずだが、あの世に行ってしまった母は許してくれるだろう。

 

母のような生き方をしたいと思う。

多くを語らず、は誤解も生みやすい。

でも、この年齢になってくるとそんなこともあまり気にならなくなってくる。

 

母の遺産を今知り嬉しく思う。

今宵はよく眠れそうである。