持っていけるもの
昨日は母のそばにいた。
写真は施設で母が履く靴である。
89年も生きれば持つものは多かったのは当然であろう。
でも母の持ち物はもともと多くなかった。
今持つものは身の回りの日用品くらいだ。
たくさん持っていたアクセサリーは世話になった人達に渡すところを何度か見ていた。
その気前のよさを母らしいと思っていた。
最後の指輪は一番細い小指にも落ち着かなくなり、施設の方から『秀樹さん、持ってて』と言われて一年ほど前に、いずれの形見だなと思い預かっている。
最後まで残った指輪は実は私が八十何回目かの母の誕生日に贈った指輪であった。
父の遺品整理、生前出来ずに引き継がされた断捨離には気が遠くなるほど苦労させられた。
残される人間に不要な苦労はかけたくない。
そろそろ自身の断捨離を始めるつもりである。
平均寿命まであと20年ほど、考えたらあっという間の時間だろう。
ものやしがらみに縛られず勝手のきく身で生きて行きたい。
母を見ていてそう思う。
残るものは記憶だけだと思う。
それだって必ず薄れていく。
あの世に持っていけるものなど何もない。
何も残す必要など無い。
そんな気持ちでいた方がこの先楽しく生きていけるような気がする。