スタンディングみや(でした。)

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兼題『雪女』

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今日は久しぶりにこの時期らしい寒さとなっているようである。

しかし三河で生まれた私は本当の寒さを知らない。

大学時代同期生の秋田の実家を訪問したことがある。

春休みを利用した三月に入るか入らない頃だったように思う。

「もっと寒いのよ」とお母さんは言っていたが私には十分すぎる寒さだった。

夜中に立ったトイレで脳溢血で亡くなる人がいるのが理解出来た。

それよりももっともっと寒い中で出来上がった雪女にはどんな意味があるのであろう。

寒さには慣れた寒さには強い雪女だろうがなんだか悲しすぎる。

ゾンビには出会いたくないが、雪女にはなんだか会ってみたいのは私だけだろうか。

俳句の投稿サイトが今年も始まった。

 

今週が発表の週です。

 

兼題『雪女』

雪国山形で育った母に雪女と出会ったことはなかったのか、 聞く機会のないまま母は恍惚の人となってしまった。 今からもう四十年近くも前に遡る。 当時看護師長だった母は山形県の雪深い町まで毎年リクルートに行 っていた。 母の同級生が高校の教師をしていた。 そのつてで一時期毎年山形から18歳が愛知県豊橋市の病院に就職 していた。母が世話を焼き、 ホームシックになりかかった女の子らを我が家に招き飲み食いをさ せておしゃべりをさせて寮へ帰らせていた。 当たり前ではあるが家じゅう東北なまりが満ち溢れて女の子たちの 熱気と気恥ずかしさで弟くらいの年齢の私は部屋にこもっていた。 扶養家族かと思えるほど出入していた女の子たちの中に透き通るよ うに白い肌をした娘がいた。成人前の彼女達は酒が強かった。 特にその娘が強かった。 冷や酒をぐいぐい飲んでもほんのり肌が薄赤く染まるだけだった。 彼女達は仕事しながら看護学校に通い、資格を取り、 年季奉公を終えてそれぞれ旅立った。 そのまま母のいる病院にいる娘もいれば山形に戻る娘もいた。 その色白の娘はなぜか九州へ嫁いでいった。 そして訃報がやって来たのはそれほど時間がかからなかった。 体調を崩していったん山形まで帰っていたが帰らぬ人となってしま ったと。母は一晩泣いていた。 連れてきた子たち全てが自分の子供のように思っていたと言って泣 いた。私は母をその昔、 凶作で年貢を納められなくなった水呑み百姓の家々を回った人買い に重ね合わせていた。 その中に間違えて雪女の子供が混ざっていた。 ラフカディオハーンの『雪女』 に出てくる透き通るような肌をした『雪娘』 だったのかもしれない。 温暖な愛知などには出て来てはいけなかった。 ましてや九州などへ行ってはいけなかった。 もう消えかかっている記憶である。 母は多くの思い出を封印したままこの世から去るのであろう。 すべてを知らぬままで通過した方がいいこともあろう。 私も今回の季題を頭に入れなければこんなことを思い出さなかった 。不思議な記憶がまた蘇った。そして今、 気がつけば私の横にいる家内は『ゆきこ』であった。 漢字は幸子だが。/宮島ひでき