兼題『唐辛子』
秋のもの悲しさを毎年考える。
これから寒く暗い冬に向かうのを身体や心が感じるのだろう。
草木の実は冬を越えるために精一杯栄養をため込む。
いつもの俳句投稿サイト、今回の兼題は『唐辛子』だった。
ゼネコン営業時代、京都駅近くの韓国人の方々がたくさん住むエリアの料理屋によく連れていってもらった。
どの店でも元気なお母さんが作る辛いが美味い韓国料理が楽しみだった。
だから冬に向かい真っ赤になった唐辛子にはもの悲しさを感じることはない。
そして、今回は別の『唐辛子』の話。
◆今週のオススメ「小随筆」
お便りというよりは、超短い随筆の味わい。人生が見えてくる、お人柄が見えてくる~♪
●母ハルヱが他界した。
昭和5年生まれのハルヱが終戦前に看護師を目指して諏訪湖のほとりにある上諏訪日赤病院に奉職したのは南方に出征した兄に会いたい一心だったと言っていた。
まだ15歳にもなっていなかったのである。
優しくて大らかな性格のハルヱは看護師になるために生まれてきたような人であった。
私が15歳の時に愛知県豊川市に家を建てて移り住んだ。
近くに朝鮮人の方の住む集落があった。
ある日そこに住む朝鮮人のお婆さんが母が庭に作っていたトウモロコシのヒゲを分けてくれないか、とやって来た。
母は優しく対応してヒゲと丸々太ったトウモロコシを渡していた。
お婆さんは腎臓が悪く、ヒゲを煎じて薬にするのだと言っていた。
それからお婆さんとハルヱの交流は始まった。
翌日には唐辛子で真っ赤に染まった白菜のキムチをビニール袋に一杯詰め込んでお婆さんさんは持って来てくれた。
辛いが旨いキムチだった。
半年もするとお婆さんは見違えるほど顔色が良くなり、元気になっていた。
コンビニなんてものは日本にまだ出現しておらず、トウモロコシのヒゲ茶なんてものをまだ見たことのない頃の話である。
私はそれから大学生となり東京へ行った。
ハルヱとお婆さんの付き合いはずっと続いていたようで、年に一度ほど私が実家に帰ると冷蔵庫にいつも真っ赤なキムチが入っていた。
お婆さんは百歳過ぎまで生きたと聞いた。
人の記憶と頭の中は不思議なものである。
実は今回の兼題『唐辛子』ではまったく別のことを考えていたのだ。
料理の世界で生きてみたいと思っていた私には唐辛子は香辛料ワールドで断トツに思いのある辛さであった。
しかし、ハルヱがこの世からいなくなり一人残務処理に当たる中で朝鮮人のお婆さんの顔が浮かんだのだ。
何が引き金だったのか考えてもわからない。
それが私の脳と心の中にある引き出しであって、記憶再生装置なのである。
ひょっとしたら母ハルヱがいたずらで引き出しを引いたのかも知れない。
唐辛子とトウモロコシ、たぶん料理では存在しない取り合わせのように思う。
ハルヱとお婆さんの接点だって普通ならばありはしない。
それをトウモロコシの細い細いヒゲが繋げたなんて不思議である。
そして今思い出した。
私はそのお婆さんに連れていかれご自宅まで行ったことがあった。
ご自宅の庭では唐辛子が栽培されており、緑の葉の中から赤黒い唐辛子がわさわさと突き出ており、それがなぜかお婆さんの黒く日に焼け曲がったしわだらけの両手の爪の替わりに付けたら似合うのにな、と変なことを考えていたことを思い出した。/宮島ひでき