思い出 の検索結果:
…めていた子どもの頃を思い出しながら母の待つグループホームへ向かった。 五ヶ月振りの母も私には変わったようには見えなかった。 でも寝たきりとなり、固形物は食べれなくなっていた。 やっと七月から面会で出来るようになったそうである。 まだ謝絶が長引くのであれば、介護のおばちゃん達は私が面会出来るように嘆願書を書く準備をしてくれていたそうである。 皆さんに感謝ばかりである。 フィリピンからの優しい技能実習生も加わっていた。 心のこもった介護をしてくれるグループホーム『れんげそう』であ…
…。 今ではあり得ない思い出話である。 昨日のこのブログでの稽古再開を目にした合気道部の後輩の女性から『子ども達に合気道の楽しさが教えてあげてください』と来た。 厳しい稽古ばかりで合気道はそんなに好きではないのでは、と勝手に思い込んでいたから嬉しかった。 あんな稽古でも合気道を楽しいものだと思ってくれた彼女に感謝する。 当時の先輩方、故市橋師範に心から感謝する。 七月からスタートする稽古で合気道のたのしさ、おもしろさを伝えていきたい。 それは私の希望であり、合気道にここまで成長…
…を言い、ハンコをもらい帰らせてもらった。 全て同意書は揃ったが、一軒だけ払う金額が大きく不審に思っていた。 自治会長に聞いてみた。 なんと自治会長の内縁の妻だったのである。 前口上と違う本心を聞いて驚きもあったが、納得した。 京都人の本質を見たという感じだった。 すべてがそうではないが、京都で出会った人には心を開いてはならない人が多かった。 近隣調整は付録であって営業マンの本来の仕事ではない。 私のこの懐かしい思い出の本当の続きはまたいつの日かここか、どこかに記したいと思う。
…った。居酒屋で私は先輩に「もうこんな生活には縁を切る」と宣言した。そして酔いに巻かれた私たちは殴り合いのけんかをした。途中から記憶の無い私は白々と明らむ駐車場で目が覚めた。小雨で濡れた私の体は冷え切っていた。梅雨寒の朝だった。それからしばらくして私は仕事をやめた。少しだけ勉強をして東京に行き大学生となった。魚市場をやめた時に先輩から「お前が羨ましい」と言われた。今でも梅雨が来ると時々その先輩を思い出す。会いたくはないが今頃何をやってるのかと、その先輩を思い出す。/宮島 ひでき
三十の歳で営業に移った。 京都出張所で営業の修行をするものと思っていたが、そうはいかなかった。 大阪支店営業部は未知の世界であった。 当時の営業部は平均年齢が高かった。 時代のせいであった。 高度成長期の名残だったのだと思う。 建設業界は営業をしなくともそこそこ仕事はあったのだ。 特にバブル絶頂に向かう時期で世は湧いていたのだ。 インフラ整備の続いた高度成長時代は土木の仕事を中心に官庁から発注され、その工事は各社に上手く振り分けられていく。 そのためにも官庁営業の各ポストは旧…
…ナの時代を振り返って思い出すのは『マスク』かも知れない。 いずれこの『マスク』は当たり前の国民服のように定着してしまうかも知れない。 日本人の生真面目さと、他人の目を気にする性格からそんな事がありうるように思う。 営業マンとしてスタートした頃、どんなに暑かろうがネクタイ、スーツ着用は当たり前だった。 滝のような汗を流して伺った設計事務所の社長が、「まずは上着を脱ぎなさい。ネクタイを外しなさい。」と言ってクーラーの温度を下げてくれたのが懐かしい。 クールビズを国が主導して夏のサ…
ゼネコンでの事務屋時代の話をそろそろ終わろうと思う。 当時いたゼネコンが現在どんな事務のやり方をしているか知らない。 しかしここまでパソコンが浸透した今、よほど大きな現場でなければ事務屋の常駐は無いのかも知れない。 そればかりか、事務は支店にいての集中管理かも知れない。 現場の所長に負担がかかるが十分そんな事が可能な時代である。 現場での私の仕事のまず最初は便所掃除であった。 下水など無い田舎の汲み取り式の便所の掃除は困難を極めた。 詰まれば職人さん達は私を呼びにくる。 専用…
私がゼネコンで生きた原点となる事務時代にもう少し付き合っていただきたい。 ほんの四年間ほどであったが濃い毎日だった。 力を持つ、おおらかなご性格の京都出張所長の虎の威を借りる事務課長には、毎晩の会社の金を使っての祇園通いに意見を申し立てて嫌われ、出張所事務を卒業させてもらった。 そこから私の現場デビューとなった。 京都は日本海から奈良県境まで北から南に長い、そして現場の数ほど事務屋の数はいない。 事務屋の給料は現場の原価に割り振られる。 だから掛け持ちとなる。 京都北部の舞鶴…
…世界なのである。 向かぬ事務でスタートしたゼネコンの世界は今考えると案外自分に向いていたのではないかとも思う。 現場では戸籍を持たね作業員の存在に驚き、上場会社の経営者と話しをし、役所の方と世の中に仕事を生み出すこともあった。 さまざまな人間との出会いは私の人間形成にさまざまな影響を与えているのは間違いない。 ここで文章を書くことによって自分の生きて来た道を振り返るだけではなく、残りの人生に活かせることが出来ると思っている。 私のゼネコンでの『懐かしい思い出』はまだまだ続く。
…を外せない『ホタルの思い出』がある。 事務職から営業職に移り、大阪支店へ移動となった。 その後再び当時の京都営業所長に拾われて京都で営業をやっていた頃である。 以前の文章を引っ張り出した恐いホタルの思い出である。 『ホタルの思い出』 蒸し暑さの増すこの時期になるといつも思い出す。 21世紀を迎える直前の夏のこと、当時はゼネコンの営業マン、京都にいた。 当時いた会社には社員は1万人近くおり営業マンもいろんなヤツが がいた。 後発のゼネコンであったが大手のゼネコンに食らいつく勢い…
ゼネコン入社一年目、京都出張所の朝は早かった。 1985年のまだ暑い秋に京都出張所に着任した。 久しぶりの新入社員はいつまでもお客さん扱いだった。 建設業での事務はどんなものか入社前に想像がつかなかった。 山奥のダムやトンネルの現場に行かされるものと思い、卒業前に歯科で虫歯の治療だけ済ませた。 しかし、そんな心配はまったく無用な京都市内の出張所の勤務であった。 当時の出張所は営業の拠点であり、現場の統括部署であった。 大阪支店内の小さな支店のようなものであった。 土木・建築の…
…しまっていた。 良い思い出も悪い思い出もたくさんある。 世話になった人もたくさんいる。 今ある私はそんな思い出を作った経験とお世話になったたくさんの人たちのお陰で存在しているように思う。 そろそろ時効になっている思い出をここに記そうと思う。 入社しての配属先は生まれて初めての京都だった。 営業所であったが、現在の関西支店ほどの仕事をやっていた。 久しぶりの新入社員ということで皆さんに可愛がってもらえた。 京都営業所長は名物所長だった。 当時のその会社には個性的な社員がたくさん…
…に第二次世界大戦直後の合気道本部道場の話を聞いた事がある。 復興のため、焼け出された一般の方を道場に仮の宿として使ってもらったり、奉仕をしたり、稽古など全く出来なかったと聞いた。 世の中が落ち着いた後、合気道普及のために各大学に合気道部を作ってもらい手弁当で指導に行ったと聞いた。 そして合気道普及の基礎が出来た、とお聞きした。 その時には聞き流していた話を今思い出す。 今『何もしない』を考える。 通常、人間は何もしないことには罪悪感を感じる。 だから今『何もしない』を考える。
…うが良いのだけれど、もしまた新しいコロナに出会ってしまったら、今回を思い出して乗り越えることが出来ます。 お父様、お母様がしてくれた事を思い出して乗り切ることができるでしょう。 今はお父様もお母様のいうことをよく聞いて、コロナウィルスにスキを突かれて入り込まれないように新しい環境の中で学業に励んでください。『文武両道』なんて昔の言葉だけれども、そんなことの出来るカッコイイ大人を目指して下さい。また会える日はすぐに来ます。 それまで元気でいて下さい。その日を楽しみにしています。
…花である。 私の母の思い出を綴った。 俳句の季語を夏井いつきは記憶再生装置だと言う。 私も常々そう思っている。 季語ばかりか五感が記憶再生装置である。 そして、年齢とともに衰える人の機能のはずが、不思議とこの五感の記憶再生装置は敏感になっているように思う。 ◆今週のオススメ「小随筆」 お便りというよりは、超短い随筆の味わい。人生が見えてくる、 お人柄が見えてくる~♪ ●背の低い子どもの頃は誰もが地面が友達だ。 歩く道のどこの道端にどんな草が生え、 名も知らぬがどこの花にハナム…
…宿題をした。 そんな思い出のあるレナウンの被災は私にとっては衝撃的なニュースだった。 今、『天使にラブソング』をテレビで観ている。 テレビではあるが映画はいいなと思う。 音楽も文学もなんでもいいと思う。 この時期を気分よく乗り切り心地良い眠りにつけて翌朝元気に目覚めることの出来る事の素晴らしさを感じたい。 いつもと違う日常で疲れた心や消耗し切ってしまった心にエネルギーを蓄積して心地良い眠りに就きたいものだ。 今日ばかりではない明日も明後日もずっとだ。 どうせ同じ『生きる』であ…
…になっている。 手紙や葉書の良さはあまり話題にのぼる事はないように思う。 考えながら一字一字を進める。 途中間違いもある。でもそれも味となって良いものだたと勝手に思う。 書いた者、もらった者にしか分からない喜びや感動がある。 こんな事を書くのは私の年齢のせいかも知れないが、残してある健全な頃の母の手紙を読みこの三ヶ月の間会っていない母の事を思い出していた。 たまたま手元に残った手紙である。 メールでもそんな事はあるのだろうか。 小学生達から手紙をもらった家内は嬉しそうだった。
…、過ぎ去れば懐かしい思い出となると思う。 子供たちと共に過ごす時間の貴重さは子供の成長と共にしみじみと感じていくものと思う。 いずれは誰にでものしかかって来る介護を誰もが漠然とは意識するものの、実際やって来なければその具体は分からない。 皆その時になって苦労して個々のやり方を作っていく。 表現が難しいが、今回のコロナでの自粛で介護への考え方が変わった人が多いと思う。 ただ単に、離れた場所で生活する被介護者に会いたくとも会えないから身体的に楽になっただけではなく、考え方も変わっ…
…宅して手を洗っていて思い出した。 今もその当時も本部道場には日本全国、世界各国から多くの方が稽古に来ていた。 私たち学生は朝8時からの稽古を中心に日曜日以外ほぼ毎日行っていた。 東京では当時から、いや合気道の歴史の黎明期から各大学に本部道場の師範が派遣されていた。 たまたま私が在籍した武蔵大学合気道部の師範が市橋先生だった。 狭い枠の中での稽古に浸るのではなく、たくさんの先生、たくさんの方との稽古をすることを先生は望んでいたのだろう。 私たちが稽古に行けばいつも機嫌は良かった…
…れました。 今回の事は人の命の関わることです。 責任者として中途半端な決断は出来ません。 状況が落ち着いたところで100%安全な状態は待っていないでしょう。 現在のインフルエンザへの対応のようになるまでには時間がかかるでしょう。 ですから今回はここまで、先のことはその時に考えます。 今考えても仕方のないことを考えるならば寝ていた方が賢いです。 我が家の聡明な『トラ』はいつも寝ていました。 そしていいタイミングで登場したものです。 しばらくは『トラ』を思い出して見習ってみます。
…浸っていると変な事を思い出す。 母ハルヱは風邪を引かない人であった。 父は冬になるとマスクをしていることが多かったらように記憶する。 母は看護師という職業に長い間就いていた。 昭和5年、1930生まれの母は看護師として長野県上諏訪にある日本赤十字病院で傷痍軍人の看護をしながら終戦を迎えた。 逆算すると15歳で終戦を迎えている。 13歳で志願して試験を受けて通常より若き歳で奉職したそうである。 東南アジアで戦死した兄に会いたいという女の子らしい理由で志願している。 風邪とそれが…
…とした事で以前の事を思い出す。 ゼネコンに入社し、事務として京都営業所に在籍していた時である。 日曜日に事務所で一人仕事をしていると、現場の所長や主任たちが事務所にやって来て事務仕事を始めることが、よくあった。 複数人が集まり、話をして昼メシを食べて午後には帰っていった。 休みに出て来るのが不思議だった。 私は当時営業所の上で独身生活しており、自分の能力を超えた作業量を抱えていたので仕方なく事務所へ降りていた。 ある日その疑問を営業所長に投げかけててみた。 すると、『みな不安…
…と言うならば毎日腕があがらなくなるまで木刀の素振りをしたらいい。 無駄の無い本当の剣の振りを身につけれるいいチャンスかも知れない。 そして、なるべく違う事をやったり、考えたりする事はすべてこれからの肥やしになっていくだろう。 畳の上での稽古が合気道のすべてでは無い、特にこんな時期であるからたまに合気道を思い出しながら違うことをやっていても植芝盛平先生も怒りはしないだろう。 時間はある、ゆっくり何が一番なのかを考えたらいいと思う。 合気道はいつまでも待っていてくれるだろうから。
…かけた。 たくさんの思い出のある公園である。 営業時代、会社に戻れずこのベンチに腰掛けながら悩んだことが何度もあった。 桜は満開、好天気なのに人のいない東野田公園、なんだか不思議な気持ちがした。 こんな気持ちをしているのは私だけではないと思う。 先のわからない今日、でも誰もが前に進まなければならない。 後ろ向きな事は考えるつもりはまったくないが、終息したこの先に待っている今日を考える。 楽しさを求めて生きてきたわけではない。 しかし、私が今まで大切にしてきた、私以外のたくさん…
…上げていろんなことを思い出す。 子どもの頃、母と兄と歩いた豊川市の『桜トンネル』、買ってもらったみたらし団子はコゲが美味いことを知った。 社会人になって生まれて初めて来たこの大阪で会社の花見をした。 京橋の東野田公園である。 ブルーシートから尻に伝わる地面の冷たさ、春の夜の冷たい空気を、楽しさと緊張感とともに憶えている。 今年はその桜を、毎年いろんな思いで見ていた桜をなんの感動も無くただ眺めていた。 そして今朝、桜への毎年の思いを上から見下ろしながら考えていた。 『見下ろす桜…
…市封鎖』が行われようとも朝から晩までこんな本を眺めていたらいい。 先が見えはしないが、終わりの無い闘いではない。 だったら、仕事からまっすぐ家に帰り家族と食卓を共にして、今までしなかったいろんな話をしたらいい。 それはこの騒動が終結して、再び忙しい日常に戻った時に活きてくるだろう。 忘れていた何かを思い出して、その先の人生の肥やしになるような何かになるであろう。 なったものは仕方がない、ならば前を向いて進むしかない。 一度きりの人生だから、どんな時でも楽しくしっかり歩きたい。
…。 コーヒータイムに思い出したこの『少年ドラマシリーズ』には眉村卓の『なぞの転校生』、筒井康隆の『タイムトラベラー』、『七瀬ふたたび』などがあり、それらが私を読書の世界に連れて行った。 スゥェーデンのリンドグレーンの作品も多かったと記憶する。 『長靴下のピッピ』『やかまし村の子どもたち』などが私の想像力を豊かにしてくれた。 そして、NHKに誘導されて母に買ってもらったこれらの本がいまだに捨てれずに持ち歩いてきた。 しかし故あって近いうちにすべてを処分しなければならない。 この…
…えてたら昔みた映画を思い出した。 『ソイレント・グリーン』てSF映画だ。 たぶん私と同年代ならば知ってると思う。 チャールトン・ヘストンが主演だった。 原作の小説は『人間がいっぱい』という邦題だった。 こんなタイトルのSF小説が本屋に並べば内容は想像がつくと思う。 人口が増えすぎて食糧不足となった近未来に政府から配給されるビスケットの材料は実は人間だった。 あまり気持ちのいい映画ではなかった。 途中、展開で想像がつくものの当時の私にはショッキングなストーリーだった。 でも、そ…
…、型抜きした残りの穴の丸型の行方も気になった。 ついでに豊橋名産のチクワは加えたまま仕事をしてもその穴で呼吸が出来ると言っていた父を思い出したりした。 ドーナツで子どもの頃育った豊橋に思いを馳せた。 今まで住んだ幾つもの街の中で都会でもなく田舎でもなく、山も海も近く、私の好きな本屋もある豊橋が好きである。 しかし、その豊橋に住もうとこれまで思わなかったのはどうしてだろう。 豊橋もこれまで住んだ他の街と同様、私には通過地点だったのかも知れない。 今住む八尾も同じような気がする。
…った。 そんな父を今思い出している。 まだまだ父の亡くなった歳には遠いが、いろんな自分が変わっているのが分かる。 まずは体力が落ちている。 でもこのことには早く自覚するべきだと思っていた。 自覚を持ってそれなりに生活する方が急にがたが来ないだろうと思っている。 そして食の好みが変わってきた。 だいぶ前からコテコテしたものは食べたくないのでは無く、少しでよくなった。 自分で作るものも同じだ。 中華よりも和食に移ってきた。 以前はかたくなに口にしなかった甘いモノを食べるようになっ…