思い出 の検索結果:
…の似顔絵の写真を見て思い出す。 誰もがスマートホンを持つこの時代とは違い、私の場合はアルバムもあるのだが時々本の間から写真が出てくる。 意図したわけではないが、裸でもらった写真を大切に持ち帰ろうと本に挟んで忘れてしまっている。 それが時々、予期せぬタイミングで出てくるのだ。 この似顔絵の写真もそうであった。 そして何故か同じ本から出て来たのはこの写真、この似顔絵の一年くらい前の写真である。 学生をしていた。 他大学の合気道部の連中と我らが合気道部の仲間である。 似顔絵と比べる…
…でいて大学の同級生を思い出した。 同じ学部の寡黙な男だった。 細身のヤサ男、私は大学の合気道部で彼は運動部には入ってなかったが空手をやってきた男だった。 二人とも人文学部の中でも女性ばかりが集まる学科にいた。 数少ない同性同士、自然と話をするようになり、仲良くなっていた。 決しておかしな仲ではない。 数少ない運動部以外の友人だった。 彼の部屋まで時々行き、私の四畳半一間の純和風のアパートの部屋とは違うワンルームの洋室に憧れた。 読む本も違い、時々本を貸してもらった。 三島由紀…
…た『大巨獣ガッパ』を思い出させた。 正義のヒーローが出て来てガッパをやっつける勧善懲悪ものではなく、人間に子ガッパを拐われた親ガッパが暴れ回るストーリーだったと思う。 主題歌も ♫火を吹く岩か、空飛ぶ島か、宇宙の神秘怪獣ガッパ〜 イントロからここまでを鮮明に記憶している。 最後は子ガッパと共に南の島に帰るという歌詞だったように記憶している。 歌詞に全てのストーリーがあったと思う。 『大巨獣』という形容も他には無いのではないだろか。 不思議によく記憶に残る映画である。 こんな時…
…が社会人となった頃を思い出します。 先輩方は退社その日とともに完全にリタイアしていました。 その頃の六十歳は年寄りに見えました。 時代は変わり、私の目も変わったのでしょう。 周りを見渡しても、自分を見てもまだあの頃の先輩達のような年寄りには見えません。 しかし、それなりの負荷は身体に蓄積し、膝は軋み、腰は痛みます。 でも、まだまだ現役で稽古を続けます。 当時と今の六十歳の違いって何なんでしょう。 確かに寿命は延びました。 でもそれだけでしょうか。 私が二十歳だった1980年日…
…気に付き添ってすぐに思い出した。あの食べ物にこだわらない母の言葉とは思えず記憶に残っていた。 外注の業者が入っているにもかかわらず、 悲しくなるような食堂であった。今は近くにコンビニもありずいぶん改善されてきた。そして今回行くと食堂の雰囲気とメニューが変わっていた。業者が変わったのだろう。持ち込みも自由なその食堂は洒落たテーブルと椅子になり、 息抜きに来る入院患者の家族や見舞客には息抜きの出来る空間とな っていた。 やはり食は大切である。付き添いのお母さんに元気が無ければ子供…
…敵な時間だった。 母の用意した糊のよく効いたハッピを羽織ってだ。 私はこの時の『秋晴』の強い陽射しを肌で覚えている。 夏休みに黒く焦がしたまだ細かった二の腕に、しわの無かった真っ黒な顔に夏のそれとは違う刺すような強い陽射しを感じたのである。 秋晴れのなか、澄んだ空気のなかの強い陽射しも考えてみれば神聖なものであるかも知れない。 この時期がやってくる度に、私は秋晴の空の下、乾いた空気の中で母の事を思い出すのであろう。 年老いて死んでしまうまで毎年思い出すのであろう。/宮島ひでき
机に向かっていてふと思い出した。 ゼネコンにいた頃、こんな季節だった。兵庫県の岡山よりにある小さな設計事務所に通った。 独りでやってるわりにはたくさんの仕事をしている設計者だった。 京都市内の当時流行の老人保健施設の設計をしていた。 通常は融資銀行や力を持つ関係者の協力で発注者にたどり着いたりするのだが、この時は水面下の情報を銀行からもらい、白紙の状態だから銀行の名前は出さずに営業するように言われていた。 行けばすぐに話ぶりでやっている事は分かった。 しかし、慎重なその設計士…
…料理では存在しない取り合わせのように思う。 ハルヱとお婆さんの接点だって普通ならばありはしない。 それをトウモロコシの細い細いヒゲが繋げたなんて不思議である。 そして今思い出した。 私はそのお婆さんに連れていかれご自宅まで行ったことがあった。 ご自宅の庭では唐辛子が栽培されており、緑の葉の中から赤黒い唐辛子がわさわさと突き出ており、それがなぜかお婆さんの黒く日に焼け曲がったしわだらけの両手の爪の替わりに付けたら似合うのにな、と変なことを考えていたことを思い出した。/宮島ひでき
…る。 いつもこの時期思い出すのが童謡の『里の秋』である。 今の小学生の音楽の教科書を目にしたことがないから分からないが、こんな童謡はいつまでも残しておいてもらいたいものである。 ♫静かな静かな里の秋、で始まるあの童謡である。 子どもの頃、両親、兄と過ごした豊川市のアパートから自転車で少し走ると穂ノ原という地名、広い農地が広がりその先に赤塚山があった。 なんでもいどこの地方都市にもありそうな田舎の風景がいつまでも私の心に残るのである。 そして、この時期『里の秋』の調べとともに私…
…しい第一期京都時代の思い出である。 24時間、365日働く時代の所長だった。 今では考えられないが私たちも4時間、5時間の残業が当たり前の時代だった。 こんな何もしない、考えない時間が尚更必要だと思う。 リセットし、頭の中の整理と切り替えに必要な時間であり、場所だったのだろう。 そして所長は甘い甘いウィンナ・コーヒーときれいなママで脳と心に栄養補給をしていたのだろう。 そんな心を許せて無為な時間を過ごすことの出来る喫茶店は減ってしまった。 今の若いサラリーマンはどうやってリセ…
…空気に突入した瞬間を思い出す。 肌にまとわりついた濡れた空気が引き離される瞬間を私の皮膚が覚えている。 陽の光や風の冷たさなども私の皮膚は覚えている。 感覚のすべてを脳が司っているのだから当然なのだろうが、不思議に感じる感覚である。 皮膚から伝わって脳から記憶が引き出されるのではなく、皮膚そのものが覚えているように思う。 皮膚が感じる感覚はその時その時一様ではないはずである。 その時刻も、私の体調も、いろんな要因に基づいた感覚であろうと思うが毎年必ず一度は感じる感覚である。 …
…口に運ぶと私に山形を思い出させる。 子どもの頃母と行った南陽市赤湯の思い出である。 この時期に行くと国道沿いに田が広がりその先の背の低い山々にブドウ棚がパッチワークのように貼り付いている。 種類と育て親の違うブドウ棚はそれぞれ微妙に色の違う緑色でパッチワークを形成している。 見慣れている地元の人たちには当たり前の光景であろう。 しかし、子どもの頃の私には毎回しばらく立ち尽くして眺める光景であった。 そして、その下にこのブドウ達はぶら下がっているのである。 赤湯の夏は暑かった。…
…、伊勢湾台風のことも思い出している。 私はまだこの世にいなかった。 生まれたばかりの兄を背負って飛びそうな自宅の引き戸を必死に押 さえたと母に聞いたことを思い出した。 最近当たり前のようにやって来る巨大台風、 今と住環境は違うものの一日で死者・ 行方不明者5千人超というのは不謹慎な比較ではあるがこの数か月 での新型コロナでの国内死亡者が千名程度であることを考えるとい かに強力な台風であったかがわかる。 しかし、それも『野分』、 桐壺の巻も『野分』である。 『白頭掻更短渾欲不勝…
…。 モノはあの世に持って行けない。 残る者の手を煩わすことの無いように必要最小限を考えなければならない。 モノの処分で頭を悩ませいろんなことを考えた。 今、家で向かう机は社会人になってすぐにゼネコンの寮、東京土木支店という名前の寮にいた時に新小岩駅前の家具屋で買ったなんの変哲もない天板と4本の脚だけの机である。 捨てる機会は無く、三十年以上使っている。 この机を見ると時々その寮の風呂場で水虫を移されたことを思い出す。 その思い出とともにいずれは処分しなけらばならない机である。
…時代の現場での仕事を思い出す。 京都の南部の京田辺市、当時は綴喜郡田辺町に上場電機メーカーの社員研修施設を建設した。 当時いらっしゃった、その時すでにOB採用されていた高齢の営業マンの用地からの持ち込みでの設計施工の物件で会社は力を入れていた。 夏の終わりに竣工した。 バブル期のどこも人手の足らない時代、建築職員は一人、また一人と京都各地の現場に散っていった。 最後は所長と事務の私だけ、その後に二期工事を控えていて大事にしなければならない時期でもあった。 残工事を残したまま所…
…で過ごす。 いつも兼題は私の記憶を再生させる。 この時間が無ければ思い出す事のない記憶はいつも物理的な事象で はない。 心理的な口での表現の難しい肌に射す陽射しや花の匂い、 五感で感じた記憶なのである。 思い出すことも不思議だが、 そんな事を覚えている事も不思議である。 やっと暑さが遠のき、散歩に弾む心があった事も思い出した。 脳での記憶と心での記憶の違いなのかも知れない。 案外俳句が広げてくれる私たちの記憶はこの心の記憶なのかも知れ ないと最近思うようになった。/宮島ひでき
…がいるはずがない。 なんとなく気にいって十年くらい手元に置いている。 絵のタッチや雰囲気、不思議さから絵本作家のスズキコージを思い出すのは私だけだろうか。 三十を過ぎた息子が子供のころ買った絵本を未だに持っている。 たくさんあった絵本の中で今手元に残っている絵本はこのスズキコージの数冊だけだ。 時々夜中に一人で眺めている。 不思議な絵を描き、ストーリーを作る作家である。 なかなか入らないスイッチを入れてくれる一冊である。 今日もまた片付けは進むことなく時間だけが過ぎていった。
…。 老化とともにいつの間にそれは出来なくなり、今はただリズムとなっているのかも知れない。 癖と言ってもいいのかも知れない。 写真は母の部屋から持ってきたラジオである。 母も夜ラジオを聴いていた。 内職の手縫いをしながら夜遅くまでふすまの隙間から灯りとラジオの音を漏らしていた。 ラジオで思い出すのは昭和の風景である。 ネットのラジオは便利で音質も安定しているがこんな手動選局のラジオがいつまでも無くならないで欲しい。 珍しくそんなことを考えながらラジオを聴き、ラジオを眺めていた。
…、ずいぶん考えたのを思い出す。 自動車の右側通行が左へと変わるというのが妙に頭に残っている。 それから50年近く経ったがゴーヤがこれほどどこの家の食卓にも登るようになったのは最近ではないだろうか。 生でも食べることが出来て、調理の簡単さや栄養価の高さから人気の野菜だろう。 もっと早くからこの簡単に出来るゴーヤチャンプルが家庭料理のメニューに加わっていてもよかったように思う。 夏野菜の代表選手となった今、ゴーヤと言えば私の頭のなかは青空である。 行ったことの無い沖縄にいつか家内…
…る。 この中で鬼籍に入った男は一人もいないが、この六人が一堂に会することは無いであろう。 楽しかった思い出と、長い人生が頭の中で交錯する。 記憶の引き出しは季語ばかりではない、こんな写真であったり、万年筆一本がそれになる。 この暑い時期にもう少ししたら引越しをする。 この先を考えて断捨離を併せて考えているが、私の記憶の引き出しはすべて引き出さられ、記憶再生装置はフル稼働するであろう。 大変な引越しの準備となりそうである。 記憶の引き出しを今晩あたりから引き出そうと思っている。
…事で私の小学生の頃を思い出した。 兄の通院に私もよく付き合わされた。 病気でもないのに病院に連れて行かれてもまったく楽しくなかった。 一度ふてくされて風船ガムを噛み、風船を膨らませて母にエラく叱られた。 病院にはどんなウイルスが漂っているかも知れないと言った。 それはよく理解出来た。 看護師としていつも家にいなかった母は兄の受診に私の一人を家に置きたくなかったのだろう。 優しい母である。 でも私は一緒に病院に連れて行かれるのが嫌であった。 そして同時に思い出した。 この時期通…
…いつかは理想の味に、思い出の味に到達する日が来るかもしれない。 簡単そうなチャーハンと焼き飯であるが、実はそれほど簡単ではない。 簡単そうに見える料理の方が案外奥が深かったりするのは料理以外の何でも同じかもしれない。 合気道の技も同じかもしれない。 同じ技を繰り返し繰り返し行い、その度に拙い考えを加えていく。 到達するところは無い。 と、すると料理にも到達する味なんてのは無いのかもしれない。 料理も日々精進なのかもしれない。 そんなふうに考えることの出来る料理は私には楽しい作…
…眺めていろんなことを思い出していた。 『京都』、二十代から三十代建設業界にいていろんな仕事をした。 バブルもあった。 怖い事も悲しい事もあった。 たくさんの人との出会いがあった。 『琵琶湖』の周りでもずいぶん仕事をした。 キョーレツな上司と共に、定期券を買った方が会社には得なほど某大学に通った。 京都の某セラミック会社の『八日市』工場新設は金も工期も無いなか、会社はステータスだけを求めての工事だった。 北見まで行って工場を建てたが現場の皆さんにご苦労を頂いただけで仕事は途切れ…
…あった。 夏の苦しい思い出しか白馬に持たない私たちに民宿のご主人からは冬にいらっしゃいと毎回言われ、よろしくお願いしますと言っていたその約束は果たすことなくご主人は他界し、宿は白馬の震災で無くなってしまった。 宿の裏手の山中に道場はあった。 開け放った窓からトンボが私たちの稽古を見学に来るような緑の中の道場だった。 稽古などするのがもったいない環境だった。 それなのに普段以上に厳しい稽古が行われた。 午後の稽古の終了時間に近づくとさすがに信州白馬の空気はひんやりしてくる。 先…
…んあった。 その頃を思い出すために餃子に向かい走るのかも知れない。 ニンニクがある、ニラがある、脂身の多い豚挽きがある。 元気が出ないわけがない。 いざと言う時にこれだと思うもの、自分を奮い立たせるものがあるのはいいもんだと思う。 それが周囲に臭いを振りまく餃子でも。 つくづく単純な男だと思う。 餃子で翌日は元気だ。 気に入った百円のボールペンやサインペンを見つければ一週間は機嫌がいい。 今日は餃子、自分で気に入った味付けをした餃子、これで明日は元気だ。 これから好きならば毎…
…ってしまって自分での判断が出来ない脳になってしまっているのだろうか。 それを理由にして動かないのならば、組織は非常に細かな事までルールを定めておかなければならない。 やり出したら際限はなくなるだろう。 だから適当なところで、一文『ここに無い事はあなたの道義心と良心を持って判断しなさい。』と記したらよいと思う。 生まれついての野良猫はその本能に従って生き抜く。 他の動物とは違い理性を持つ人間は、ほんの少しの優しさを加えて、野性を思い出し本能に従って生きてもいいように思うのだが。
…と兄との夏の出来事を思い出させてくれた。 ◆今週のオススメ「小随筆」 お便りというよりは、超短い随筆の味わい。人生が見えてくる、お人柄が見えてくる~♪ ●『朱と赤』が私の記憶の引き出しから転がり出てきた。 母と兄との思い出である。 なぜ『朱と赤』がプールなのか説明無しでは誰も分りはしないだろう。 昭和40年代の初め、小学校にも徐々にプールの整備が進んできた。 わが故郷豊川市のそれは遅れていた。 そして、小学校にはないプールが市役所の裏の運動公園の一角に出来たのである。 子供用…
…かしたらそんな言葉が思い出話のように話しされるようになるのではないだろうか。 私の同年代以上が土曜日の半ドンを知っているように毎日会社に行っていた事を過去形で話をする日が来るのかも知れない。 二日酔いでも無理矢理起きてネクタイを首からぶら下げて、定期を持ってスーツ姿で満員電車に飛び乗る必要はなくなる。 植木等の世界は完全に銀幕の彼方の世界に行ってしまい、今すでに死語になりかかっている『モーレツサラリーマン』なんて言葉も辞書でも開かなければお目にかかる事は出来なくなるのだろう。…
…た。 仕事で良くない思い出があり、ミナミに逃げていた事情もあります。 キタの皆さんに叱られそうですがミナミの方が私にとって落ち着く場所が多いのは間違いありません。 心斎橋で時々元気なノラ猫を見かけます。 絵になる素敵な猫が多いですよ。 さだまさしの『にゃんぱく宣言』から漏れている猫たちですが、強く元気に生きています。 どこに寝ているのかとか、何を食べているんだなんてことは考えません。 強く生きている猫たちを見て元気をもらっています。 自分にも重ね合わせて今日のタキシードにも「…
…た。 うろ覚えだが、思い出した。 あったあったこんなのが、との記憶ぐらいだから真剣に読んでいなかったということになる。 私が営業に移った1990年にはもうこの世に存在していたという事になる。 ゼネコンの営業は難しい。 あるものを売るわけでは無い。 その場に無いものを買ってもらわなければならない。 ゼネコンの営業には定石は無い。 だから、この『テキスト』を作るのは大変だったと思う。 頭がよく、優秀しかも字の上手い先輩がいたという事になる。 当時営業の研修なんてあったのだろうか。…